第1話 古龍の巣窟で育った魔女の子
※本文中の「◇◇◇」は場面転換、「◆◆◆」は視点転換を表しています。
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私の朝は、いつもルベリアママの声から始まる。
「ヒストリアー! 起きてるかー! 今日も朝の運動をするぞー!」
扉の向こうから響いた明るい声に、私は毛布の中で目を開けた。天井には淡い光を宿した水晶がいくつも埋め込まれていて、朝日の届かない古龍の巣窟の奥でも、私の部屋はいつも柔らかい明るさに包まれている。
外の世界では、寝室に古代魔導水晶をいくつも置く家なんてほとんどないらしい――昔、オフィーリアママがそう教えてくれた。
けれど、夜でも本が読めるし、空気も綺麗になるし、ちょっとお願いすれば今日の天気まで映してくれる。やっぱり、便利なものは便利だと思う。
「はーい、今行きます」
寝間着のままベッドを降りて扉を開けると、赤い髪を腰まで流した女の人が、待ちきれないという顔で立っていた。背が高くて、笑うと周りまで明るくなるような人で、抱きしめる力が少しだけ強い。
いや、「少しだけ」だと思っているのは私だけで、よその人なら悲鳴をあげてもおかしくない強さなのかもしれない。けれど、ここではそれが当たり前だった。
「おはよう、ヒストリア!」
「おはようございます、ルベリアママ」
「今日も可愛いなあ! 朝から元気が出る!」
「むぎゅ……」
挨拶の代わりに抱きしめられて、私はルベリアママの胸元に顔を埋めることになった。腕は温かいけれど、少し力を入れられると息が止まりそうになる。
それでも、私は慌てずにルベリアママの背中をぽんぽんと叩いた。
「ルベリア、朝からその子を潰してはいけませんよ」
廊下の奥から聞こえてきた声に、ルベリアママは「あ、すまんすまん」と笑いながら腕の力を緩めた。ようやく胸元から解放された私は、小さく息を吸ってから、声のした方へ顔を向ける。
そこには、白銀の髪をしたセレスティアママが歩いてきていた。白いドレスの裾が床を撫でるたび、空気に小さな光の粒が浮かび、すぐに溶けるように消えていった。
セレスティアママは魔法が得意だ。以前、私に「簡単な結界」を教えてくれたことがあるのだけれど、その結界を張ったら巣窟の外にいた竜たちが全員ひっくり返ってしまった。
セレスティアママは「あら、少し出力が強かったかしら」と言っていたので、たぶん本当に少しだけ強かったのだと思う。
「おはようございます、セレスティアママ」
「ええ、おはよう。ヒストリア、髪が少し跳ねていますね」
セレスティアママが指先を軽く振ると、私の髪がふわりと浮いて、櫛を通されたみたいに整っていく。毎朝思うけれど、これはとても便利な魔法だ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。今日も世界一可愛いわ」
「世界は見たことないですけど……そうなんですか?」
「ええ、間違いありません」
セレスティアママが真面目な顔で言うので、私はそういうものなのかと思うことにした。
そこへ、黒髪のシズクママが音もなく現れる。シズクママはいつも静かで、背筋がまっすぐ伸びていて、腰には細い剣を下げている。龍なのに剣を使うのは珍しいらしいが、私はシズクママの剣が好きだった。無駄な力が入っていないのに、気づいた時にはもう勝負が終わっているところが、とても綺麗だと思う。
「ヒストリア」
「はい、シズクママ」
「昨日の素振り。右足が半歩遅れていた」
「あっ……やっぱり分かりました?」
「分かる。あとで直す」
「はい!」
シズクママは口数が少ないけれど、私のことをよく見てくれている。褒める時も注意する時も短いので、最初は少し怖いと思っていたこともあったけれど、今ではその短さがシズクママらしくて好きだった。
最後に、金色の髪をゆるく結んだオフィーリアママが、分厚い本と数枚の書類を抱えて歩いてきた。オフィーリアママは知識がすごい。歴史も、薬草も、魔法理論も、国家の仕組みも、礼儀作法も、私が聞けば大抵のことは教えてくれる。
ただ、少しだけ心配性だ。
「ヒストリア、今日の予定ですが、朝食後に一般常識の復習を入れます」
「一般常識ですか?」
「ええ。今日は、人間の町で初対面の相手に古龍級の魔力圧を向けてはいけない、という話から始めましょう」
「それ、前にも聞きました」
「では確認です。相手が失礼なことを言った場合、どうしますか?」
「えっと……軽めに魔力を出す?」
「出しません」
「じゃあ、逃げないように結界で包む?」
「包みません」
「難しいです……」
私が真面目に答えると、オフィーリアママは片手で額を押さえた。どうしてそうなるのかは分からないけれど、一般常識の授業の時、オフィーリアママはよくこの顔をする。
「まあまあ、いいじゃないか。うちの娘は素直で可愛い!」
ルベリアママが私の背中をばしんと叩いて、私は少し前につんのめった。
「素直なだけでは外で危険です。特にヒストリアは、自分の力の基準がかなりずれています」
「ずれてますか?」
「かなり」
シズクママが即答した。
私は少しだけ頬を膨らませた。みんながそう言うのなら、きっとそうなのだろうけれど、この巣窟で暮らしている限り、私には自分がそこまで変だとは思えない。
◇◇◇
朝の運動場は、巣窟の中でも特に広い場所にある。
壁も天井も遠く、見上げれば空に似た水晶の膜が淡い青色に光っている。ここは、龍たちが本来の姿に戻っても自由に動けるように造られているらしい。けれど、パパもママたちも普段は人の姿で過ごしているから、私にとっては「ちょっと広すぎる訓練場」という印象の方が強かった。
ただ、下層にいる竜たちが時々見学に来ると、そうも思わなくなる。竜は人の姿にはなれないので、身体が大きいままだし、少し尻尾を動かしただけで岩が砕けることもある。それでも、龍たちが言うには、普通の竜の危険度はだいたいAランクくらいらしい。
私はAランクがどのくらい危ないのか、まだきちんとは分かっていないんだけどね。
「よし、ヒストリア。今日は軽く受け流しの練習だ。私がゆっくり打つから、避けるか止めるかしてみろ」
「はい、ルベリアママ」
「間違っても本気で返すなよ。前みたいに床が抜けるからな」
「あれは、ルベリアママが『遠慮はいらない』って言ったから……」
「遠慮はいらないと言っただけで、訓練場の下層まで貫けとは言ってない!」
ルベリアママは大きく笑いながら、軽く拳を構えた。赤い髪が揺れ、足元に薄い魔力の波が広がる。見た目は人の姿だけれど、その一歩だけで空気の重さが変わった。
私は息を整えて、シズクママに教わった通りに足を置く。
「いくぞ」
「はい」
ルベリアママの拳が、ゆっくりと迫ってきた。
たぶん、ママにとっても本当にゆっくりなのだと思う。けれど、これを止めるのは簡単じゃない。私はその拳を横へ避けようとして、ふと昨日シズクママに言われた右足の遅れを思い出した。
半歩、早く。
そう意識して動いた瞬間、ルベリアママの拳が私の頬の横を通り過ぎた。——その風で、髪がブワッと舞う。
「お、今のはいいな」
「本当ですか?」
「ああ。だが、嬉しくなって気を抜くな」
「はい!」
次の一撃は、さっきより少し速かった。私は避けるのではなく、手の甲で軽く流そうとした。——けれど、角度が悪かったのか、ルベリアママの拳と私の手がぶつかった瞬間、足元の石床に細い亀裂が走った。
「あっ」
「…………ヒストリア」
「ごめんなさい。軽くやったつもりでした」
「お前の軽くは信用できないんだよなあ……」
ルベリアママは困ったように笑っていたが、怒ってはいなかった。むしろ、少し嬉しそうにも見える。
訓練場の端では、セレスティアママが結界を張っていた。白銀の光でできた薄い膜が何重にも重なり、その奥で眷属の龍たちが記録を取っている。たぶん、私の練習結果をオフィーリアママが後で確認するのだろう。
「ヒストリア、力は悪いものではありません。けれど、外の世界では力を出す前に、周りに何があるかを見る必要があります」
セレスティアママの声が、結界越しに届く。
「周り、ですか?」
「ええ。あなたが平気でも、近くにいる人が平気とは限りません。あなたが少し転んだだけで、人の家が壊れるかもしれませんし、あなたが少し驚いただけで、普通の冒険者なら立っていられないこともあります」
「私は、驚いただけでそんなことしません」
「本当に?」
「……たぶん」
セレスティアママが優しく微笑んだので、私は少し自信がなくなった。
すると、シズクママがいつの間にか私の横に立っていた。
「力はある。でも、戦い方はまだ粗い」
「粗いですか?」
「粗い。対人なら、読まれる」
対人戦という言葉に、私は首を傾げた。ここでの訓練相手はママたちや眷属の龍たちばかりで、人間と戦ったことはほとんどない。外の世界には冒険者という戦う人たちがいるらしいけれど、私はまだ本で読んだ知識しか持っていなかった。
「外には、強い人がいますか?」
「いる」
シズクママは迷わず答えた。
「私より?」
「今のあなたなら、勝てない相手もいる」
私は目を丸くした。怖いというより、少し驚いた。自分が誰より強いと思っていたわけではないけれど、この巣窟で暮らしていると、外にいる人の強さを想像するのが難しい。
「会ってみたいです」
思わずそう言うと、ルベリアママが豪快に笑った。
「そういうところはいいな! でも、負けても泣くなよ?」
「泣きません」
「本当か?」
「たぶん……」
「たぶんか!」
ルベリアママがまた笑って、訓練場の空気が少し軽くなった。
けれど、シズクママの目は真剣なままだった。
「外では、力だけで勝てない。覚えておいて」
「はい、シズクママ」
私は素直に頷いた。シズクママがそう言うなら、きっと本当なのだ。
◇◇◇
朝食の席には、いつもより少しだけ緊張した空気があった。
大きな食堂の中央には長いテーブルが置かれ、焼きたてのパンや果物、山ほどの肉、魔力を含んだ温かいスープが並べられている。眷属の龍たちは人の姿で静かに給仕をしていて、その動きはとても綺麗だった。
「お嬢様、おはようございます」
青い髪を綺麗に結んだ眷属の一人が、私の前にスープを置いてくれる。彼女は私が小さい頃からよく菓子をくれる人で、私が頭を下げると、少しだけ嬉しそうに笑った。
「おはようございます。今日のスープ、いい匂いですね」
「ありがとうございます。ですが、このスープは今朝、セレスティア様がお嬢様の体調に合わせて調整してくださったものなのですよ?」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。お嬢様が昨夜少し寝つきにくそうだったからだと仰っていました。」
私は思わずセレスティアママを見た。セレスティアママは何もなかったように紅茶を飲んでいる。
「セレスティアママ、もしかして見てました?」
「見守っていただけです」
「それは見ていたということでは?」
「見守っていただけです」
同じ言葉をもう一度返されたので、私はそれ以上聞かないことにした。ママたちは、私のことになると時々とても大胆になる。特にオフィーリアママが作った水晶は本当に便利で――私のことなら、どこにいても見えてしまうらしい。
食堂の奥には、パパがいた。
大きな椅子に座り、静かにお茶を飲んでいる。灰銀色の髪と金色の瞳を持つその人は、ただそこにいるだけで部屋の空気を少しだけ引き締める。普段は人の姿をしているけれど、それでもパパが普通の人ではないことは、巣窟の誰もが知っていた。
パパの名前はヴァルグリム。外の世界では、たぶんとても偉くて、誰もが恐れるような龍らしい。
けれど、私にとっては普通のパパだ。
「おはよう、ヒストリア」
「おはよう、パパ」
私が駆け寄ると、パパはほんの少しだけ表情を緩めた。他の人には分かりにくいかもしれないけれど、私は知っている。これは、パパが笑っている顔だ。
「よく眠れたか」
「はい。大きなパンケーキを、竜のみんなで食べる夢を見ました」
「そうか。それは良い夢だ」
「はい!」
席に着くと、ルベリアママが私の皿に肉を多めに乗せ、セレスティアママがスープを飲みやすい温度に冷まし、シズクママが無言で野菜を追加し、オフィーリアママが今日の予定表を広げた。
「ヒストリア、食事中ですが、先ほどの一般常識の補足をします」
「今ですか?」
「今です。食事中の方が、あなたは逃げませんから」
「逃げませんよ」
「では質問です。外の町で竜を見かけた場合、どうしますか?」
「近づいて、挨拶します」
「しません」
「え……?」
「外の町にいる竜は、基本的に危険な魔物として扱われます。あなたにとっては撫でられる相手でも、町の人々にとっては討伐対象になることがあります」
私はスープの匙を止めた。
「竜が、討伐されるんですか?」
「そういうこともあります。龍と竜は違いますし、外の人間は私たちの眷属である竜と、野生の竜を同じようには見ません」
「でも、竜もちゃんと話せば分かる子がいます」
「それを判断できる人間は多くありません」
オフィーリアママの声は優しかったけれど、少しだけ厳しかった。
私は下層で門を守っている竜たちの顔を思い浮かべた。大きくて、鱗が硬くて、笑うと牙が見える。最初は怖いと思ったこともあったけれど、今では私を見ると尻尾を振ってくれる子もいる。
外の人にとっては、あの子たちも怖いのだろうか。
「ヒストリア」
パパの声がして、私は顔を上げた。
「お前に話がある」
その一言で、食堂の空気が変わった。ルベリアママが肉を切る手を止め、セレスティアママの指先から光が消え、シズクママが目だけをパパへ向け、オフィーリアママは予定表を静かに閉じた。
「えっと……私、何かしました?」
「していない。むしろ、何もしていないからこそだ」
「何も、ですか?」
「お前はこの巣窟で育った。ここにいる者たちは皆、お前を大切に思っているし、私もお前をできることならずっと守っていたいと思っている」
パパの声は穏やかだったけれど、そこにはいつもの甘さだけではない、何か重いものが混じっていた。
「だが、ヒストリア。お前は外の世界を知らない」
「外の世界……」
「人の町を知らず、国を知らず、冒険者を知らず、そして人族がどれほど弱く、どれほど複雑な悪意を持つことがあるのかも、まだ本当の意味では知らない」
私は何も言えなかった。
弱い者の痛みや、悪意の形――その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷たくなったからだ。ほんの一瞬、まぶたの裏に炎の色がちらついた。誰かが泣き叫ぶ声と、私の手を強く握っていた温かい指の感触が、遠い夢のように浮かんで、すぐに消えていく。
「ヒストリア?」
セレスティアママの声で、私は食堂に戻ってきた。目の前にはパパがいて、ママたちがいて、温かい朝食の香りがある。
「……大丈夫です。少し、ぼーっとしていました」
私は笑った。ちゃんと笑えていたかは分からないけれど、ママたちを心配させたくなかった。
パパは私をじっと見ていたが、やがて静かに息を吐いた。
「ヒストリア、外の世界を見てこい」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「外に、ですか?」
「ああ」
「巣窟の外の森じゃなくて?」
「もっと先だ」
「竜たちの放牧地でもなくて?」
「もっと先だ」
「パパの眷属さんたちが管理している山脈の端でもなくて?」
「もっと先だ」
それは、私が本でしか知らない場所へ行くという意味だった。
町があって、人がいて、冒険者がいて――国という大きな仕組みがあって、私の知らない生活がある場所へ、自分の足で向かうということ。
胸が少しだけ高鳴った。けれど、それと同じくらい不安もあった。
「でも、私……ちゃんとできるでしょうか」
「できるようになるために行くのだ」
パパは言った。
「この巣窟は、お前にとって安全だ。だが、安全すぎる場所は、時に世界から目を遠ざける。お前には、外で見なければならないものがあり、出会わなければならない者がいる」
「出会わなければならない人……?」
「今は分からなくてよい。ただ、いつか分かる」
パパの言葉の意味は分からなかった。けれど、その声がいつもより真剣だったから、私は茶化すこともできずに膝の上で手を握った。
「反対です」
最初にそう異議を唱えたのは、オフィーリアママだった。
「ヒストリアはまだ外の常識を十分に理解していません。貨幣制度、身分制度、冒険者階級、国ごとの法律、歴史認識、どれも知識としては教えていますが、実感を伴っているとは言えません」
「だからこそだ」
「外で学ばせるには危険が多すぎます」
セレスティアママも静かに頷いた。
「人間の悪意は魔物より厄介です。あの子は優しすぎるから、傷つけられてからでないと気づけないかもしれません」
「悪いやつがいたら殴ればいいだろう。いや、違うな。私がついていって殴る」
「それでは旅の意味がない」
シズクママが短く言うと、ルベリアママは分かりやすく不満そうな顔をした。
「でも心配だろう?」
「心配」
シズクママは即答した。
パパは小さく息を吐いた。たぶん、ママたちがこう言うことは分かっていたのだと思う。
私は、みんなに心配されている。それは嬉しいことなのに、今だけは少しだけ胸が苦しかった。私が外を知らないから、みんなは心配してくれている。けれど、知らないままでいる限り、この心配はきっとずっと終わらない。
「私、見てみたいです」
口にした言葉は、思ったより小さかった。
それでも、嘘ではなかった。
「パパやママたちが教えてくれたことが、外の世界ではどういうものなのか知りたいです。人の町がどんな場所なのか、冒険者がどんな人たちなのか、自分の目で見てみたいです」
ルベリアママが泣きそうな顔になり、セレスティアママは口元を押さえた。シズクママは目を閉じ、オフィーリアママは何かを考えるように私を見つめている。
パパは、静かに頷いた。
「ならば、準備を始めよう。ただし、これだけは覚えておけ。困ったら逃げろ。勝てると思っても、戦うな。力で解決できることは多いが、力だけで解決してはならないこともある」
「はい。…………あの、パパ」
「なんだ」
「——人間の町で、竜を撫でても大丈夫ですか?」
「「「「「……………………。」」」」」
食堂が静かになった。
オフィーリアママが、ゆっくりと額に手を当てる。
「……やはり、そこからですね」
ルベリアママは大笑いし、セレスティアママは困ったように微笑み、シズクママは「教育、追加」とだけ言った。パパはしばらく黙ってから、深くため息をつく。
「出発は、少し先だな」
こうして、私が外の世界へ出ることが決まった。正直に言えば怖くないわけではないけれど、パパとママたちが教えてくれたものを抱えて、私の知らない場所へ行くことを想像すると、不安の奥で小さな期待が揺れているのも確かだった。
◇◇◇
その日の午後から、私の予定はほとんど全部変更された。
オフィーリアママは「旅立ち前集中講義」と書かれた分厚い束を持ち出し、セレスティアママは護身用の結界をどこまで弱くすれば人間の町で問題にならないかを真剣に検討し、ルベリアママは「最低限これくらいはできないと危ない」と言いながら岩山を三つほど運んできた。ちなみに、シズクママは無言で木剣を差し出してきた。
私はその瞬間、外の世界へ出る前の方が大変なのではないかと思った。
「まず、貨幣です。外では物をもらったら、基本的に対価を支払います」
「お菓子をくれる眷属さんには、いつもありがとうって言ってます」
「感謝は大切ですが、それだけで商店の商品を持ち帰ってはいけません」
「持ち帰りません」
「本当に?」
「……たぶん」
オフィーリアママはまた額を押さえた。
その横で、セレスティアママが小さな水晶をいくつも並べている。水晶の中には遠くの景色を映すものや、魔力の乱れを知らせるもの、持ち主の位置を示すものがあるらしい。
「…………ヒストリア、これは旅先で身につけておく護符です。危険があれば私たちに知らせるように調整してあります」
「危険があったら、ママたちに分かるんですか?」
「ええ、もちろん。ですが、常にあなたを監視するつもりではありません」
「本当ですか?」
「はい。見守るだけです」
「本当に……ですか?」
「………………。」
オフィーリアママは咳払いをして、何事もなかったように説明を続ける。
「ちなみに、外で貴族と関わる場合は特に注意してください。龍の血筋や眷属関係とは異なり、人間社会の身分は非常に面倒です。礼儀を誤ると、相手が勝手に侮辱されたと騒ぐことがあります」
「勝手に騒ぐんですか?」
「騒ぎます」
「困りますね」
「困るのは相手の方かもしれません。あなたが本気で困った顔をしただけで、周囲の魔力が揺れる可能性がありますから」
そんなことはないと言いたかったけれど、ママたち全員がこちらを見ていたので、私は言葉を飲み込んだ。
その後、私はシズクママと短い手合わせをした。力を入れすぎないように気をつけているのに、どうしても足元に亀裂が入る。けれど、シズクママは一度も力で受け止めず、半歩の移動と木剣の角度だけで私の体勢を崩してくる。
「また負けました……」
「力は強い。だけど、見すぎ」
「見すぎ?」
「相手の剣だけ見ると、足を払われる。目だけ見ると、手を読めない。外の強者は、あなたが思うよりずるい」
「ずるいんですか?」
「ずるい。だから強い」
シズクママはそう言って、倒れた私に手を差し出した。
私はその手を取って立ち上がりながら、外の世界にいる強い人たちのことを想像した。力だけでは勝てない相手がいるのだとしたら、それは少し怖くて、でも少し楽しみでもあった。
ただ、その気持ちを口にするとママたちが心配しそうだったので、私は胸の中にしまっておいた。
◇◇◇
——その日の夜。
深夜になっても、私はなかなか眠れなかった。
ベッドに入ってからも、外の世界のことばかり考えてしまう。オフィーリアママの本で読んだ町は本当にあんな形をしているのだろうか、冒険者という人たちはみんな強いのだろうか、竜を撫でてはいけないなら外の人はどうやって竜と仲良くなるのだろうか――考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。
でも、不思議と嫌ではなかった。
分からないことが増えるたびに、私の胸の中には小さな灯りのようなものが増えていく。知りたいという気持ちが、不安と同じ場所で揺れているのが分かった。
やがて眠気がゆっくりと降りてきた頃、胸の奥で何かがかすかに揺れた。
声ではなかった。夢でもなかった。ただ、とても懐かしい温もりが、ほんの一瞬だけ私を包んだ気がした。
私はそれが何なのか分からないまま、目を閉じた。
◆◆◆
ヒストリアが眠った後、部屋の外にはヴァルグリムが立っていた。
人の姿を取った古龍の影は、いつもと変わらぬ佇まいだった。だが、その沈黙には、長い年月を生きた者だけが抱える重さがあった。
「……すまぬ」
その言葉が誰に向けられたものなのか、眠る少女は知らない。
扉の前には、いつの間にか四人の妻たちも集まっていた。ルベリアは腕を組んだまま唇を噛み、セレスティアは祈るように指を重ね、シズクは黙って目を伏せている。オフィーリアだけが、手の中に小さな水晶を持っていた。
「本当に、行かせるのですね」
オフィーリアの問いに、ヴァルグリムはすぐには答えなかった。
古龍の巣窟は静かだった。下層で眠る竜たちの気配も、廊下の奥に控える眷属たちの息遣いも、今は遠く感じられる。
「このまま閉じ込めておくことはできぬ」
「閉じ込めているつもりはありません」
セレスティアの声は穏やかだったが、わずかに震えていた。
「分かっている。だが、守ることと遠ざけることは、時に同じ形をしてしまう」
ルベリアが小さく舌打ちした。
「外の連中が、あの子を傷つけたらどうする」
「その時は、あの子自身が知ることになる。傷つく痛みも、怒りも、それでも誰かと関わることの意味もだ」
「随分と父親らしいことを言うじゃないか。だが、お前だって本当は心配で仕方ないんだろう」
ヴァルグリムは否定しなかった。
彼は扉越しに、眠る少女の気配を確かめるように目を閉じる。ヒストリアの呼吸は穏やかで、胸の奥に眠るもう一つの気配も、今は静かだった。
シズクがぽつりと言う。
「中の彼女は?」
「まだ眠っている」
「——いつか、目覚める」
「ああ」
短いやり取りの後、誰も言葉を続けなかった。
それが優しさだったのか、臆病だったのか、彼自身にもまだ答えは出ていない。
「外へ出れば、いずれ過去に触れることになります」
オフィーリアが水晶を握る手に力を込めた。
「いつまでも隠せるものではありません」
「だからこそ、あの子には自分の目で世界を見る時間が必要だ。誰かに真実を突きつけられる前に、何を信じ、誰と歩むのかを選べるだけの心を育てねばならぬ」
ヴァルグリムの声は低かった。
その声に滲んでいたのは、「五大災害」の一角と称される古龍の威圧ではなく――たった一人の娘を案じる、ひとりの父親の苦悩だった。
セレスティアは目を伏せ、静かに言った。
「ならば、せめて見守らせてください。干渉はしません。けれど、あの子が本当に助けを求めた時に、何も知らずにいるのは耐えられません」
「私もだ。水晶でも何でも使う。あの子が変な男に近づかれたら、すぐに分かるようにしろ」
「ルベリア、私情を混ぜないでください」
「大事なことだろうが」
ほんの少しだけ、重かった空気が緩んだ。
オフィーリアはため息をつきながらも、手の中の水晶に魔力を流した。淡い光が灯り、まだ何も映していない水晶の奥で、細かな術式がゆっくりと回り始める。
「旅立ちまでに調整しておきます。ただし、あくまで緊急時の見守りです。常時覗くようなことはしません」
その場にいた全員が、わずかに目を逸らした。
「……しません……よね?」
オフィーリアが念を押すと、ルベリアは口笛を吹き、セレスティアは微笑み、シズクは沈黙した。ヴァルグリムだけが深く息を吐いた。
「ほどほどにせよ」
「パパであるあなたが一番見そうですけどね」
オフィーリアの指摘に、ヴァルグリムは何も返さなかった。その沈黙が答えだった。
やがて、扉の奥でヒストリアが小さく寝返りを打った。全員が同時に口を閉じる。まるで世界で一番大きな災害よりも、眠る少女を起こすことの方が恐ろしいとでも言うように、古龍とその妻たちは息を潜めた。
水晶の光が、廊下の暗がりで静かに揺れる。
それはまだ目覚めぬ誰かの鼓動にも似ていて、ヴァルグリムはその光から目を離せなかった。
「もう隠し続けるだけでは守れぬ。あの子は、いずれ世界を知る」
そして世界もまた、ヒストリア・A・ルクシアという少女を知ることになる。
ただし、その名がどのように刻まれていくのかを、この時点で知る者はまだ誰もいなかった。




