プロローグ 世界が魔女を失った日
※本文中の「◇◇◇」は場面転換、「◆◆◆」は視点転換を表しています。
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——精霊歴二〇〇八年。
後の歴史家たちは、その年を境に、世界の均衡が静かに崩れ始めたと記している。
当時、大陸西方にはアルヴェルド王国という大国が存在していた。
豊かな鉱山資源、広大な穀倉地帯、強固な城塞都市、そして周辺諸国へ強い影響力を持つ軍事力。
アルヴェルドは自国を大陸西方の盟主と称し、いくつもの小国を従え、周辺地域に対して強硬な外交を続けていた。
だが、諸国が本当に恐れていたのは、アルヴェルドの軍事力そのものではない。
その背後にいた、一体の魔物だった。
——冥骸王バルザレム。
冒険者ギルド本部によって、SSランクの中でも災害級に指定されていた巨大髑髏の魔物である。
山のような頭蓋。空を覆う骨の腕。眼窩の奥で揺らめく青白い魔力。
生者から魔力を奪い、死者の怨念を集め、戦場そのものを死の領域へ変える異形。
バルザレムは、単独で都市を滅ぼし得るだけの力を持ちながら、さらに複数の眷属を従えていた。
その眷属たちの平均危険度は——Sランク。
つまり、通常であれば一体現れただけでも国境警戒が敷かれ、冒険者ギルドが緊急依頼を出すような魔物たちが、バルザレムの配下として群れを成していたのである。
それは、ただ強い魔物ではない——軍勢を持つ災害だ。
そして、アルヴェルド王国は、その冥骸王バルザレムと協力関係を結んでいた。
表向きには、共通の敵に対抗するための一時的な協定とされている。
アルヴェルドはバルザレムの力を借り、周辺諸国への圧力を強めた。
バルザレムはアルヴェルドの土地と兵力を利用し、自らの眷属を増やす機会を得た。
互いに利用し合う危うい関係。
そう見る者も多かった。
だが、当時の各国にとって重要だったのは、その関係が真実かどうかではない。
アルヴェルドに手を出せば、冥骸王バルザレムが動く。
それだけで十分だった。
アルヴェルドの国境付近では、何度も小競り合いが起きていた。
属国化を拒んだ小国の砦が、一夜にして沈黙したこともある。
調査に向かった冒険者たちは、砦の内部で兵士の遺体を見つけなかった。——代わりに発見したのは、鎧をまとったまま動き続ける骨の兵たちだった。
それがアルヴェルド軍の仕業なのか。
バルザレムの眷属によるものなのか。
あるいは、両者の共同作戦だったのか。
真相は分からない。
ただ一つ確かなのは、その日以降、周辺国の多くがアルヴェルドへの直接干渉を避けるようになったということだった。
冒険者ギルド本部も、冥骸王バルザレムの討伐依頼を正式に発行することはできなかった。
SSランク災害級個体。
複数のSランク眷属。
アルヴェルド王国の軍事支援。
それらが組み合わさった状態で討伐作戦を行えば、失敗した時の被害は一国に留まらない。
下手をすれば、大陸西方全域が死者の軍勢に呑まれる。
それが、当時のギルド本部の判断だった。
各国も同じだった。
どの国もアルヴェルドを危険視し、バルザレムを恐れていた。
——だが、どの国も最初の一手を打てなかった。
何故なら、自国だけが矢面に立つことを恐れたからである。
同盟を組もうにも、準備には時間がかかる。
軍を動かせば、アルヴェルドに察知される。
ギルドへ討伐を依頼しても、バルザレムの眷属を相手にできる冒険者は限られていた。
教国でさえ、聖騎士団の派遣については慎重だった。
冥骸王バルザレムは、ただそこにいるだけで、国々の判断を鈍らせるほどの脅威だったのである。
だからこそ、アルヴェルド王国は増長した。
周辺国への要求は年々強まり、貿易路には不当な関税が課され、属国には兵の供出が命じられた。
それでも諸国は耐えた。
耐えるしかなかった。
下手に動けば、王国の軍だけではなく、冥骸王の死者軍団を呼び寄せることになる。
そうなれば、戦争などというものではない。一方的な殺戮劇だ。
世界は、アルヴェルド王国と冥骸王バルザレムを前にして、長い沈黙を強いられていた。
◇◇◇
その沈黙を破ったのは、一人の魔女だった。
——彼女の名は、リュシエラ・A・ルクシア。
当時、魔女という種族は恐れられながらも、いまだ世界の中で一定の立場を保っていた。
長命で、強い魔力を持ち、独自の術式体系を継承する種族。
一方で、理性を持ち、対話が可能であり、薬学、結界術、魔導具、古代文字の解読など、各国に利益をもたらす存在でもあった。
リュシエラもまた、その中の一人。
少なくとも、事件以前の公的記録では、彼女はそう扱われていた。
しかし、冥骸王バルザレムにとって、リュシエラ・A・ルクシアはただの魔女ではなかった。
かつて、バルザレムはリュシエラに敗北している。
その詳細は記録に残っていない。
どこで戦い、何を奪われ、どのように退けられたのか。それを知る者は少ない。
ただし、バルザレムがリュシエラを深く憎んでいたことだけは、多くの記録が示している。
冥骸王がアルヴェルド王国と手を結んだ理由の一つも、そこにあったとされる。
アルヴェルドは魔女の力を恐れ、リュシエラを危険視していた。
バルザレムはリュシエラを恨み、彼女への復讐を望んでいた。
目的は一致していたのだ。
だが、それは表向きの話でしかなかった。
後世の研究者たちは、バルザレムの真の目的を別のところにあると見ている。
冥骸王は、アルヴェルド王国を守るつもりなどなかった。
リュシエラ・ルクシアがアルヴェルドを攻撃すれば、王国の兵士、騎士、魔術師、そして民の多くが死ぬ。
その死者を眷属に変えれば、バルザレムは無限に近い軍勢を得ることができる。
魔女に殺された国の戦力を、そのまま死者の軍隊へ作り替える。
それこそが、冥骸王バルザレムの狙いだったと考えられている。
アルヴェルド王国は、バルザレムを利用しているつもりだった。
だが実際には、王国そのものが、冥骸王にとって巨大な餌場だったのである。
——そして、精霊歴二〇〇八年。
ついに、その均衡は崩れた。
アルヴェルド王都上空に、冥骸王バルザレムが姿を現した。
それは同盟国を守るためではない。
王都を拠点とし、周辺諸国へ死の軍勢を広げるためだったとされている。
王都の空は青白く染まり、城壁の上では兵士たちが次々と倒れた。
地中から骨の腕が伸び、墓地から死者が起き上がり、かつて戦場で倒れた者たちの怨念が王都へ集まった。
バルザレムの眷属たちも動き出した。
Sランク級の死騎士。
腐敗した翼を持つ骨竜。
魂を啜る黒衣の亡霊。
巨大な獣骨を組み上げた魔物。
それらが王都周辺に現れたことで、各国は完全に動けなくなった。
救援を出せば、眷属と衝突する。
軍を送れば、死者として取り込まれる。
討伐隊を編成しても、到着する頃には王都そのものが冥骸王の軍勢に変わっている可能性があった。
冒険者ギルド本部は緊急会議を開いた。
周辺諸国は国境を封鎖した。
教国は聖騎士団の派遣を検討した。
だが、どの組織も決断できなかった。
決断するには、冥骸王バルザレムという脅威はあまりにも大きすぎた。
——その時現れたのが、リュシエラ・A・ルクシアだった。
彼女は軍を率いていなかった。
冒険者を連れていたわけでもない。
教国の聖騎士団と共に来たわけでもない。
ただ一人で、アルヴェルド王都へ向かった。
その後に何が起きたのかを、正確に記した記録は存在しない。
遠方の観測塔に残されたのは、白く塗り潰された魔力計測紙。
空間干渉を記録する水晶には、黒い亀裂だけが刻まれていた。
王都近郊の山脈では、地脈の流れが一時的に逆転し、周囲の森では三日三晩、風が止まったと伝えられている。
唯一、複数の記録に共通して残っているのは、一つの事実だけだった。
——その日、アルヴェルド王国は消えた。
王都も。
城も。
軍も。
王族も。
冥骸王バルザレムも。
Sランク級の眷属たちも。
大国としての痕跡すら、ほとんど残されていなかった。
そこにあったのは、灰色の大地だった。
焼け跡ではない。
爆心地でもない。
まるで、存在そのものを世界から削り取られたかのような、静かで、なめらかな灰の平原。
後に、この出来事は「灰骸消失事件」と呼ばれるようになる。
冒険者ギルド本部、諸国連合監察院、魔導災害研究機関は共同で調査を行った。
その結論は、当時の世界に衝撃を与えた。
アルヴェルドを滅ぼしたのは、冥骸王バルザレムではない。
冥骸王バルザレムと、その眷属たちを討ち滅ぼし、同時にアルヴェルド王国を消滅させたのは、リュシエラ・ルクシア単独の力である。
それまで、災害級とは国や都市に甚大な被害を与える魔物、あるいは群れ、あるいは制御不能な自然現象に対して用いられる分類だった。
だが、この事件によって、世界は初めて認めることになる。
ただ一つの個が、国家を滅ぼし、災害を消し、地形を変え、歴史を断ち切ることがあるのだと。
——精霊歴二〇〇八年。
リュシエラ・A・ルクシアは、世界で初めて単独の存在として災害級に認定された。
それは、冥骸王バルザレムという災害を終わらせた功績であると同時に、魔女という種族への畏怖を決定的にした瞬間でもあった。
世界は救われた。
少なくとも、その時はそうだった。
だが、人々は忘れなかった。
冥骸王を滅ぼした魔女は、同時に一つの大国を地図から消したのだという事実を。
その恐怖は、十年後、別の形で世界を動かすことになる。
◇◇◇
——精霊歴二〇一八年。
灰骸消失事件から十年後、教国は魔女狩りを開始した。
教国が掲げた大義は明快だった。
——魔女は危険である。
——魔女は世界を滅ぼし得る。
リュシエラ・ルクシアという前例が存在する以上、魔女という種族を放置することは人類全体への背信である。
その主張は、恐怖に揺れる一部の国々に受け入れられた。
灰骸消失事件の記憶は、まだ世界に新しかった。
かつて大国だったアルヴェルドの消滅は、誰にとっても遠い昔話ではなかった。
たった一人の魔女が、SSランク災害級の冥骸王を滅ぼし、同時に国を消した。
その事実は、人々に強烈な不安を植えつけていた。
そして教国は、その不安を利用した。
聖旗を掲げ、聖騎士を派遣し、各地に魔女の危険性を説いた。
最初は調査だった。——だが、次に監視となり、やがて拘束となり、最後には討伐となった。
魔女の集落が焼かれた。
魔女と取引をしていた町が取り調べを受けた。——そして、魔女を保護していた村が、異端協力者として罰せられた。
人々の中には、教国を支持する者もいた。
家族を魔物に殺された者。
魔法への恐怖を持つ者。
灰骸消失事件を魔女全体の罪だと信じた者。
だが、すべての国が教国に従ったわけではない。
むしろ当時、世界の流れは、魔女との対立ではなく、共存へ向かいつつあった。
魔女は強大な魔力を持つ。
しかし、理性を失った魔物ではない。
言葉を持ち、文化を持ち、家族を持ち、他種族と契約を結ぶこともできる。
薬師として町を支えた魔女がいた。
結界師として辺境の村を守った魔女がいた。
古代遺跡の封印を読み解き、災害を未然に防いだ魔女もいた。
そのため、諸国会議では、魔女を一方的に排除するのではなく、監督制度や保護制度を整え、正式な友好関係を築く方向で議論が進められていた。
いくつかの国では、すでに魔女を受け入れるための法整備が始まっていた。
魔女と人間が共に暮らす村もあった。
魔女の知識を借りて発展した町もあった。
魔女と契約を結び、魔物被害を抑えていた辺境領も存在した。
——教国の魔女狩りは、それらの流れを断ち切ったのだ。
教国は、各国の主権を無視して兵を動かした。
国境を越え、領主の許可を待たず、魔女の捜索を行った。
魔女を匿ったと判断した村には聖騎士が踏み込み、抵抗した者は異端協力者とされた。
その中には、本当に魔女を隠していた者もいた。
——だが、そうではない者も多かった。
魔力の強い女性。
薬草に詳しい老婆。
人里離れた場所で暮らしていた母娘。
古い魔導具を受け継いでいた商家の娘。
銀髪や赤い瞳を持つだけの少女。
しかし、魔女狩りという大義名分のもと、多くの無関係な女性が傷つき、奪われ、迫害され、殺された。
教国は、それを必要な犠牲と呼んだ。
世界は、それを虐殺と呼んだ。
それでも、教国は止まらなかった。
魔女の力は危険である。
リュシエラ・ルクシアのような存在が再び現れれば、世界は滅びる。
そう繰り返し、教国は自らの正しさを疑わなかった。
——精霊歴二〇三二年。
十四年に及ぶ魔女狩りの末、教国は魔女の討伐完了を宣言した。
多くの魔女が死んだ。
多くの集落が消えた。
魔女と関わりを持っていた町や村も、深い傷を負った。
そして、その年を境に、世界から魔女の姿はほとんど確認されなくなった。
教国は勝利を告げる鐘を鳴らした。
聖堂では祈りが捧げられ、聖騎士たちは人類を守った英雄として称えられた。
——だが、その鐘の音が大陸全土に祝福として届くことはなかった。
諸国会議は、教国に対して強い非難決議を出した。
冒険者ギルド本部もまた、教国の越境討伐と民間被害を問題視し、聖騎士団との共同作戦を無期限で停止した。
大商会連合は教国との主要取引を凍結し、複数の港湾都市が教国船の入港を制限した。
理由は明白だった。
第一に、教国は他国やギルドに十分な相談を行わず、国境を越えた武力行使を繰り返した。その結果、魔女とは無関係の国民にも被害が出た。
第二に、魔女狩りという大義名分のもと、魔女ではない女性までもが大量に殺傷された。
第三に、魔女は本来、理性を持ち、対話と協力が可能な種族であり、当時の諸国会議では友好関係を結ぶ方向で議論が進められていた。
第四に、いくつかの国では魔女を受け入れる体制が整っており、魔女と人間が共に暮らす村や町も少なくなかった。
第五に、教国はそれらの国や村に対し、武力を背景に自らの大義名分を押し付けた。
その他多くの国際条約違反により、教国は国際的な信用を大きく失った。
大国との貿易は凍結され、主要街道の通行権も制限された。
諸国会議への参加資格は剥奪され、教国の発言権は大きく低下した。
現在、教国が安定した貿易を行えている相手は、一部の小国や属国、そして教国の影響下にある商人たちに限られている。
教国は今もなお、自らの行いは正しかったと主張している。
魔女を滅ぼしたことで、人々は災害級の脅威から救われたのだと。
だが、その主張は、現在の世界において決して広く受け入れられてはいない。
——なぜなら、魔女狩りが終わった後、世界には新たな災害が生まれたからである。
◇◇◇
——リュシエラ・A・ルクシアには、支配領域があった。
それは王国のように旗を掲げた土地ではない。
城を構え、民を従え、税を集めるような領地でもない。
ただ、彼女の魔力と存在そのものによって均衡を保たれていた広大な魔境である。
人の国境線では測れない、古い森、沈んだ谷、腐敗した湿地、空間の歪む遺跡、そして人の手が届かない山脈。
そこには、数え切れないほどの魔物がいた。
本来ならば国を脅かすほどの個体も、いくつも存在していた。
だが、それらは外へ出なかった。いや、——出られなかった。
——それは、リュシエラ・ルクシアがいたからである。
彼女は魔物を一体ずつ従えていたわけではない。
すべてを管理し、命令していたわけでもない。
ただ、その領域に彼女が存在するという事実そのものが、魔物たちにとって絶対的な圧力だった。
強すぎる個体は、彼女に目をつけられる。
縄張りを広げすぎれば彼女に潰される。
人里へ向かえば、彼女に消される。
だから、魔境は魔境でありながら、一定の均衡を保っていたのだ。
人々はそれを知らなかった。
少なくとも、多くの国は正しく理解していなかった。
リュシエラ・A・ルクシアを恐れ、魔女を危険視しながらも、彼女が抑えていたものの大きさには気づいていなかった。
それは、教国も同じだった。
魔女を滅ぼせば、世界は安全になる。
そう信じ、そう叫び、そう行動した。
だが、リュシエラ・A・ルクシアが世界から姿を消した後、彼女の支配領域は崩壊した。
——抑え込まれていた魔物たちが動き出したのだ。
古い魔境の奥で、縄張り争いが始まった。
主を失った魔力の流れは乱れ、地脈は暴れ、封じられていた異形が目を覚ました。
そして数年のうちに、各地でSSランク個体が確認されるようになった。
空を裂いて飛ぶ黒翼の龍。
都市一つを覆う毒霧を吐く湿地の主。
山脈を削りながら移動する鉱殻の巨獣。
古代遺跡から這い出した、意思を持つ鎧の群れ。
その多くは、かつてリュシエラ・ルクシアの支配領域に封じ込められていた個体、あるいは彼女の存在によって成長を抑えられていた個体であると考えられた。
そして、世界はようやく理解した。
リュシエラ・A・ルクシアは、ただ恐ろしい魔女だったのではない。
彼女は、災害そのものを抑える災害だったのだと。
教国は、魔女を討ったと宣言した。
だが、その結果として、世界には無数の災害が解き放たれた。
現在もなお、諸国会議では教国の責任が問われ続けている。
教国は反論する。
リュシエラ・ルクシアの支配領域崩壊は予測不可能だった。
魔女の存在を放置する方が危険だった。
世界のために、必要な決断だった。
けれど、その言葉を信じる国は少ない。
なぜなら、教国は相談しなかった。
止める声を聞かなかった。
共存の道を踏みにじった。
そして、多くの命を奪った末に、世界の均衡までも壊した。
歴史家の一人は、後にこう記している。
教国は、魔女を滅ぼしたのではない。
世界を支えていた柱の一つを、自らの手で折ったのだ。
——その折れた柱の名は、リュシエラ・A・ルクシア。
だが、世界はまだ知らない。
その魔女が本当は、何を守ろうとしていたのかを。
その血を受け継ぐ者が、今もどこかで生きていることを。
そして——その者がやがて、再び歴史の中心へ歩いていくことを。




