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第5話 リーヴェルの町と、疲れた受付嬢

 ※本文中の「◇◇◇」は場面転換、「◆◆◆」は視点転換を表しています。


 ---------------------------------------


 人の町に来るのは、初めてじゃない。

 まだお母さんと一緒にいた頃、何度か町を歩いたことはある。

 けれど、それはもう、百年近く前の記憶だった。

 それに、リーヴェルという町も、この領地も、私は初めて見る。

 

 ——久しぶりに見る、人の町。

 

 門の前に並ぶ人たちも、荷馬車の列も、腰に剣を下げた冒険者さんたちも。どこか懐かしいのに、初めて見るものみたいに新鮮だ。

 昔は人族との違いなんて分からなかったのに、今は全く違う種族に思えてならない。

 私は思わず、鞄の紐を握りしめた。

 

「ヒストリアちゃん、緊張してる?」

 

 隣にいたミナさんが、少しだけ顔を覗き込んでくる。

 

「緊張………そうですね。少しだけしているんだと思います。」

「……?」

「これだけ人が多いところに来るのは、久しぶりなので。」

「ああ、そういうこと」

 

 ミナさんは納得したように笑った。

 後ろにいたセイルさんが、門の列を見ながら肩をすくめる。

 

「町って、慣れないと情報が多いからな。俺も田舎から出てきた時は、何を見ればいいか分からなかったし」

「セイルさんもですか?」

「俺の場合、三日目で財布を落とした」

「それは大変です」

「本当に大変だった。だからヒストリア、鞄はちゃんと持ってた方がいい」

「はい。ちゃんと持ちます」

 

 私は鞄の紐をもう一度握り直した。

 ガルドさんが前から振り返る。

 

「門を通るだけなら、そこまで心配しなくていい。聞かれたことに答えて、必要なら保証書を見せればいい。俺たちも一緒にいる」

「はい」

「それと、変なことは言うなよ?」

「してません」

 

 そう言ってから、私は少し考えた。

 外では、自分の普通をそのまま言わない方がいい。

 昨日から少しずつ学んでいる。

 

「……たぶん」

「そこは言い切ってほしい」

 

 セイルさんが困ったように言った。

 ミナさんが小さく笑う。

 その笑い声を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。

 列は、少しずつ前へ進んでいく。

 商人さんが荷馬車の荷物を確認され、旅人さんがギルド証を見せ、冒険者さんたちが短く挨拶をして門を通っていく。

 やがて、私たちの番になった。

 門番さんは最初にガルドさんたちを見て、それから私を見た。

 鎧を着ていて、腰には剣がある。けれど、魔物みたいな怖さはない。ただ、ちゃんと見られている感じはあった。

 

「ガルドたちか。森帰りだな」

「ああ。報告することがあるんだ。このままギルドへ行く」

「分かった。そちらの子は?」

 

 門番さんの視線が、私に向く。

 私は一歩前へ出て、教わった通りに頭を下げた。

 

「ヒストリアです。旅の途中で、ガルドさんたちと一緒に来ました」

「ギルド証は?」

「持っていません。でも、身元保証書ならあります」

 

 私は鞄から、銀色の梟が描かれた封筒を取り出した。

 その瞬間、門番さんの表情が変わった。

 さっきまで普通に仕事をしていた顔が、少しだけ固くなる。

 

「……銀梟?」

 

 門番さんは小さく呟いた。

 その声を聞いた隣の門番さんも、ちらりとこちらを見る。

 私は首を傾げそうになったけれど、保証書を持ったまま、じっと待った。

 

「確認しても?」

「はい」

 

 保証書を渡すと、門番さんは両手で受け取り、封を開いた。

 紙面の端に刻まれた銀梟の魔力印が、淡く光る。

 羽の形に沿って銀色の線が走り、保証人の名前の横で静かに止まった。

 どうやら、その光が印と名義が本物かを確かめる仕組みらしい。

 門番さんの喉が、小さく動いた。

 

「メルディア・オルフェン……」

 

 声が少し掠れていた。

 私は思わず尋ねる。

 

「………使えませんか?」

「いや、使える。使えるが……」

 

 門番さんは言いかけて、周囲を見た。

 それから、少しだけ声を落とす。

 

「この保証人とは、どういう関係で?」

「ママです」

「は…………………………?」

 

 門番さんが止まった。何故か、隣の門番さんも。

 さらに、セイルさん達まで、後ろで小さく息を呑んでいる。

 私は少し不安になって、ガルドさんを見る。

 ガルドさんは片手で額を押さえそうになったけれど、すぐに咳払いをした。

 

「俺たちが森で同行した。怪しい子じゃない。これからギルドへ報告に行く」

「……そうか。ガルドが一緒なら、ひとまず問題はないか」

 

 門番さんはもう一度、保証書を確認した。

 銀梟の魔力印。オフィーリアママの名前(偽名)。魔力紋。

 全部を確かめた後、さっきよりずっと丁寧に保証書を返してくれた。

 

「失礼しました。保証書に問題はありません。リーヴェルへようこそ」

「……?。…………ありがとうございます」

 

 私は、頭に疑問符を浮かべながら、頭を下げた。

 

 (門番さんの態度が、最初と少し違う?)

 

 これも、銀梟商会とオフィーリアママのおかげなのだろう。

 オフィーリアママの名声は、本当に凄いらしい。

 本当はこの人にもママについて聞いてみたかったけど、後ろにはまだ人が並んでいたので、私はそれ以上聞かず、ガルドさんたちについて門をくぐった。

 

 門の内側へ足を踏み入れた瞬間、音が増えた。

 外から聞こえていた町の音が、壁を越えた途端、近くなった。

 石畳の道。並ぶ店。揺れる看板。荷物を運ぶ人。屋台から立ちのぼる湯気。道の端で話し込む人たち。走っていく子ども。建物の間を抜ける風。

 私はそれを見た瞬間、思わず足を止めた。

 

「……ここが、リーヴェル」

 

 懐かしい。——でも、知らない町。

 百年近く前にお母さんと歩いた町の記憶は、もっとぼんやりしている。手を引かれて、知らない人に声をかけられて、甘いものを買ってもらった気がする。

 けれど、この町はその記憶の中の町とは違う。——でも、匂いも、音も、光も、人の流れも、全部が今ここにある気がする。

 

 (久しぶりの、本物の人族の町…………。)

 

「ヒストリアちゃん、きょろきょろしすぎると人にぶつかるわよ」

「…………はい。気をつけます」

 

 そう返事をした直後、横を通った荷車の車輪に目を奪われて、私は少しだけ足を止めた。

 それを見て、ミナさんが苦笑する。

 

「……ギルドに行くまで、私の隣を歩きましょうか」

「…………………………お願いします」

 

 私は素直に頷いた。

 町は、森よりずっと賑やかだった。

 そして、森よりずっと、迷子になりやすそうだった。


 

◇◇◇


 

 リーヴェルの町は、思っていたより広かった。

 門から続く大通りには、いろいろな店が並んでいる。

 布を売る店。革袋を並べた店。果物を積んだ屋台。焼き菓子を売っている小さな露店。武器屋らしい看板。薬草の匂いがする店。

 通りの奥からは、金属を叩く音も聞こえた。鍛冶屋さんだろうか。

 私はそちらを見ようとして、ミナさんに袖を軽く引かれる。

 

「ヒストリアちゃん、そっちはあとでね」

「あとで見られますか?」

「報告が終わって、時間があればね」

「分かりました」

 

 私は頷いて、もう一度前を向いた。

 見たいものが多い。

 けれど、まずはギルド。

 ガルドさんたちは森で起きたことを報告しなければいけないし、ロックボアの素材も売る必要がある。

 それは分かっている。

 でも、屋台から甘い匂いがすると、足が少しだけ遅くなった。

 

「ヒストリア、甘いものが好きなのか?」

 

 セイルさんが気づいて、横から聞いてくる。

 

「はい。好きです」

「町の焼き菓子はうまいぞ?リーヴェルは果物も多いから、果実入りのやつが人気だ!」

「果実入り……!」

「今の言葉、覚えたって顔してる」

「覚えました!」

 

 セイルさんが笑った。

 ガルドさんは前を歩きながら、少しだけ呆れた声を出す。

 

「先にギルドだ」

「分かっています」

「本当に分かってる顔か?」

「たぶん」

「たぶんか」

 

 ガルドさんの肩が少し揺れた。

 私は少しだけ頬を膨らませたけれど、すぐに通りの向こうに目を奪われた。

 大きな荷馬車が、ゆっくりと道を進んでいた。

 荷台には、木箱が何段も積まれている。その側面には、銀色の梟の印が描かれていた。

 

「あの印……」

 

 私が呟くと、ミナさんもそちらを見た。

 

「ああ、銀梟商会の馬車ね」

「銀梟商会…………」

 

 さっき門番さんも言っていた名前だ。

 私は改めてその馬車を見る。

 馬車の周りには、護衛らしい人たちがついていた。身なりの整った商人さんが、帳簿のようなものを確認しながら店の人と話している。

 

「あの、銀梟商会とは何ですか?」

 

 私が聞くと、三人が同時にこちらを見た。

 セイルさんが目を丸くする。

 

「知らずに、あの保証書を持ってたの?」

「はい。これはオ…………メルディアママが用意してくれたものなので」

「メルディアママ……」

 

 セイルさんが小さく繰り返した。

 ミナさんは少し考えるように口元へ指を当てる。

 

「銀梟商会は、大陸中に取引網を持つ大商会よ。商人ならまず名前を知っているし、冒険者でも護衛依頼や運送依頼で聞くことがあるわ」

「大陸中…………」

「そう。魔石、薬草、布、食料、魔導具、希少素材。扱うものも多いし、支店や取引先も広いの。商業ギルドとのつながりも強いわ」

「そうなんですね」

 

 私はもう一度、銀梟の印が描かれた馬車を見た。

 メルディアママが外で仕事をしていることは知っていた。

 でも、こんなふうに町の中で名前が出てくるような人だとは知らなかった。

 

「さっきも言ったが、メルディア・オルフェンは、その銀梟商会の筆頭保証人で、契約顧問なんだ」

 

 ガルドさんが補足する。

 

「教科書にも出る有名な偉人だ。だが、会いたくても会えない謎の多い人物という意味でも有名だな。」

「なるほど……」

 

 私は小さく呟いた。

 ママたちは、家ではママだった。

 ご飯の時に注意したり、礼儀作法を教えてくれたり、服の皺を直してくれたり、私の荷物を何度も確認したりする。

 だから、外でどんなふうに知られているのかは、あまり考えたことがなかった。

 メルディアママは、私が思っていたよりずっと、外の世界に名前を持っている人らしい。

 

「……ヒストリアちゃん、本当に知らなかったのね」

 

 ミナさんが少しだけ驚いた顔で言う。

 

「はい。銀梟商会は今日が初耳でした」

「それであの保証書を持ってるの、なかなかすごいわ」

「そうなんですか?」

「うん。たぶん、すごい」

 

 ミナさんはそれ以上、大きな声では言わなかった。

 私も、なんとなく大きな声で話すことではない気がして、頷くだけにした。

 銀梟商会の馬車は、通りの向こうへ進んでいく。

 その銀色の印を見送りながら、私は少しだけ胸元の首飾りに触れた。

 外の世界には、私の知らないママたちの顔がある。

 それを知るのも、旅の楽しみの1つになるのかもしれない。


 

◇◇◇


 

 冒険者ギルドは、大通りから少し入った場所にあった。

 大きな二階建ての建物で、入口の上には剣と盾、それから羽根ペンを組み合わせた紋章が掲げられている。

 扉の前には、何人かの冒険者さんが立っていた。

 剣を持った人。槍を背負った人。大きな袋を肩に担いだ人。疲れた顔で水筒を飲んでいる人。

 彼ら共通しているものがあるとすれば、みんな武器を持っているということだろうか。

 

「ここが冒険者ギルドですか?」

「ああ。リーヴェル支部だ」


 ガルドさんが扉を開けると、中からいくつもの声が重なって聞こえてきた。

 正面には長い受付カウンターがあり、その前には冒険者さんたちが列を作っている。でも、その要件はさまざまなようで、依頼の報告をしている人もいれば、素材の入った袋を足元に置いて順番を待っている人もいた。

 

 右側の壁には、大きな掲示板がある。

 そこには、紙が隙間なく貼られていた。

 採取依頼。護衛依頼。討伐依頼。調査依頼。

 文字だけのものもあれば、魔物の特徴が絵で描かれているものもある。

 小さな牙を持つ獣。

 大きな角のある鳥。

 毒を持つ虫。

 人の腰くらいまでしかなさそうな、丸い魔物。

 

 私は思わず、その掲示板の前で足を止めた。


「これも、討伐依頼なんですね」

 

 私が呟くと、セイルさんが掲示板を覗いた。

 

「ああ、それはDランクの魔物だな。新人が何人かで受けるやつ」

「Dランク」

「小さいけど、普通に危ないぞ。油断すると怪我する」

「…………そうなんですね」

 

 私は、その絵をもう一度見た。

 

 ——小さい。


 たしかに牙はあるけれど、森で見たロックボアよりずっと小さい。

 昔、お母さんと旅をしていた頃に見た魔物や、巣窟付近へたまに迷い込んでくる魔物たちとは、全く違う。

 でも、これも魔物。人族からすれば、危険な存在なのだろう。

 

「ヒストリアちゃん。今、何か変なこと考えてない?」

 

 ミナさんが横から聞いてくる。

 

「小さいなと思いました」

「うん。正直でよろしい」

「でも、危険なんですよね?」

「そう。小さくても、毒を持っていたり、群れで襲ってきたりするからね」

「分かりました。小さくても油断しません」

「いい子」

 

 ミナさんが満足そうに頷いた。

 その時、受付の方から少し大きな声が聞こえた。

 

「だから、昨日も言っただろ!!報酬の計算が違うんじゃないかってッ!!」

「確認いたします。依頼番号をお願いします」

「番号? そんなもの覚えてるわけないだろッ!!」

「では、依頼書の控えか、受注時の札はお持ちですか?」

「そ、そんなの持ってるわけねぇだろッ!!」

「承知しました。では、お名前と受注日から確認いたしますので、少しお待ちください」

 

 受付カウンターの向こうで、一人の女の子が書類をめくり、横の棚から別の紙束を取り出し、冒険者さんの話を聞きながら、羽根ペンで何かを書き込んでいた。

 声は明るい。丁寧で、落ち着いていて、慣れている。

 柄の悪い大男を前にしてもビビらず、手も止まっていなかった。

 年は、私と見た目ではそう変わらないように見える。

 明るめの茶髪は、肩に触れるくらいの長さで切りそろえられ、瞳は蜂蜜色に近い温かな琥珀色。

 着ているのは、清潔感のある受付嬢の制服だ。胸元には受付職員の札があり、全体的にきちんと整えられている。

 けど、袖口には少しだけ使い込まれた跡があり、前髪もほんのわずかに乱れていた。

 

 その顔は、受付嬢のお手本かのような笑顔。

 穏やかで、丁寧で、初めて来た人でも安心できるような表情だ。

 でも、よく見ると目元には疲れがにじんでいるように思えた。

 

「リリー、相変わらず忙しそうね」

 

 ミナさんが小さく呟いた。

 

「あの方が、話していた受付の子ですか?」

「そう。リリーちゃん。ここの受付嬢よ」

 

 リリーさん。

 私はその名前を、心の中で繰り返した。

 リリーさんは、冒険者さんから聞き取った情報を確認すると、棚から一枚の書類を取り出した。

 

「確認できました。報酬の計算に誤りはありません。ただ、素材の一部が破損扱いになっているため、満額ではなく減額されています」

「破損? あれくらいでか?」

「はい。買取基準では、牙の根元に亀裂がある場合、加工用途が限られるため減額対象になります。こちらに基準表がありますので、ご確認ください」

 

 リリーさんは、すぐに別の紙を差し出した。

 冒険者さんは不満そうにそれを見たけれど、やがて頭をかいた。

 

「……分かったよ」

「ありがとうございます。次回からは、討伐後の運搬時に布で包むと破損しにくいです」

「そこまで教えてくれるのか」

「素材の状態が良い方が、冒険者さんの報酬も上がりますので」

 

 リリーさんは、にこりと笑った。

 冒険者さんは少しだけ気まずそうにして、礼を言って離れていく。

 すると、すぐに次の人がカウンターへ進んだ。

 

「お待たせしました。次の方、こちらへどうぞ」

 

 明るい声。

 丁寧な笑顔。

 止まらない手。

 積まれた書類。

 でもこれは、他の受付嬢も変わらない。

 なのに——何故か私は、この人から目が離せなかった。


 

◇◇◇


 

 少し待ってから、ガルドさんたちの番になった。

 リリーさんは顔を上げると、ガルドさんたちを見て、少しだけ表情を和らげた。

 

「ガルドさん、ミナさん、セイルさん。お帰りなさい。森の依頼でしたよね」

「ああ。報告がある」

「…………通常報告ではなさそうですね」

 

 リリーさんの声は変わらず丁寧だった。

 でも、目が少しだけ真剣になった気がした。

 ガルドさんは頷いて、背負っていた袋を下ろす。

 

「森の浅い場所でロックボアが出た」

 

 その瞬間、リリーさんの手が一瞬だけ止まった。

 

「……また、浅い場所ですか」

「ああ。場所は東側の採取路から少し入ったところだ。個体は大きめ。Bランク相当、場合によってはB+で見てもいい」

「お怪我は?」

「俺たちは軽傷だ。だが、正直危なかった」

 

 リリーさんはすぐに紙を取り出し、場所、時間、個体の特徴を書き込んでいく。

 その筆は速く、迷いがない。

 セイルさんが横で小さく息を吐いた。

 

「リリー、相変わらず書くの速いな」

「遅いと処理が終わりませんので」

「その返し、笑えないんだけど」

「私もあまり笑えません」

 

 リリーさんは笑顔のまま言った。

 でも、その笑顔は少しだけ薄い。

 ガルドさんが、私の方を見る。

 

「それと、森でこちらのヒストリアに助けられた。ロックボアの討伐に大きく関わっている。素材の取り分を渡したい」

 

 リリーさんの視線が、私に向いた。

 きれいな目だった。

 疲れているのに、それを感じさせない笑みで、ちゃんとこちらを見ている。

 

「初めまして。リーヴェル冒険者ギルド受付のリリーです」

 

 私は背筋を伸ばして、頭を下げた。

 

「ヒストリアです。よろしくお願いします、リリーさん」

「こちらこそ、よろしくお願いします。森でガルドさんたちを助けてくださったんですね」

「はい。たぶん、助けられたと思います」

「たぶん?」

 

 リリーさんが少しだけ瞬きをした。

 セイルさんが横から口を挟む。

 

「ロックボアの突進を木剣で逸らして、気絶させた」

「………………は?」

 

 リリーさんの表情が、固まった。

 

「……木剣で?」

「はい」

「ロックボアを?」

「はい」

「気絶させた?」

「はい」

 

 リリーさんは数秒だけ黙った。

 それから、ゆっくりとガルドさんを見る。

 

「ガルドさん」

「事実だ」

「ミナさん」

「事実よ」

「セイルさん」

「俺も見た」

「……………………私は、疲労で幻聴を聞いているのでしょうか?」

「疲労は事実だろうが、幻聴ではない。」

 

 リリーさんは、手元の報告書に視線を落とした。

 そして、小さく息を吐く。

 

「…………分かりました。報告書には、通りかかった旅人の助力あり、とだけ記載しておきます」

「助かる」

「詳しく聞いたところで、誰も信じてくれませんから。」

「だろうな」

 

 ガルドさんが頷いた。

 リリーさんは、また私を見る。

 さっきより少しだけ、興味が混じった目だった。

 

「ヒストリアさんは、冒険者登録されていますか?」

「いいえ。ギルド証も持っていません」

「身元確認ができるものはありますか?」

「はい。ママの身元保証書があります」

 

 リリーさんの手が、また止まった。

 

「……ママ?」

「はい、オ…………メルディアママです。」

「……………………もしかして、メルディア・オルフェン様のことですか?」

「はい。」

「………………………………。」

 

 リリーさんの表情が、再び笑顔のまま固まった。

 セイルさんが小さく「あ、またこの反応」と呟いた。

 それを、ミナさんが肘でつつく。

 リリーさんはすぐに表情を整えたけれど、目だけは少し驚いたままだった。

 

「確認してもよろしいですか?」

「はい」

 

 私は鞄から保証書を取り出し、リリーさんに渡した。

 リリーさんは両手で受け取り、銀梟の魔力印を確認する。

 淡い銀の光が、紙面を走った。

 

「……本物ですね」

「はい」

「銀梟商会の、メルディア・オルフェン様の保証書……」

 

 リリーさんは小さく呟いた。

 私は少しだけ首を傾げる。

 

「リリーさんも、銀梟商会をご存じなんですか?」

「…………もちろんです。商業ギルドと関わる仕事をしていれば、知らない方が難しい名前です」

「そうなんですね」

「……もしかして、ヒストリアさんはご存じなかったんですか?」

「はい。今日、門のところで初めて聞きました」

 

 リリーさんは、今度こそ少しだけ素の顔になった。

 驚きと、困惑と、少しだけ笑いをこらえるような顔。

 

「そう、ですか」

「変ですか?」

「いえ。……ですが、少しだけ、珍しいと思います」

 

 リリーさんはそう言って、保証書を丁寧に返してくれた。

 それから、書類を一枚取り出す。

 

「素材の買取と報酬分配について処理します。ヒストリアさんは冒険者登録がないため、依頼報酬ではなく、素材売却分の分配という形になります。問題ありませんか?」

「はい。大丈夫です」

「ガルドさんたちも、それでよろしいですね?」

「ああ」

「では、ロックボアの牙、魔石、肉の一部ですね。状態を確認します」

 

 リリーさんは素材を確認しながら、すぐに別の書類へ数字を書いていく。

 計算が速い。

 手元の表を見て、素材の状態を確認して、金額を出して、分配の欄まで書く。

 その間にも、隣の職員さんから呼ばれて、別の書類に確認印を押していた。

 一人の体で、二つか三つの仕事をしているみたいだった。

 

「リリー。」

 

 奥の方から、低い声がした。

 リリーさんの手が、ほんの少しだけ止まる。

 受付の奥にある扉の近くから、職員らしい男の人がこちらを見ていた。

 

「あの書類はまだ終わっていないのか。子爵家への提出分だ。遅れると困る」

「申し訳ありません。こちらの処理が終わり次第、すぐに確認します」

「早くしろ。」

「はい」

 

 リリーさんは笑っていた。

 声も丁寧だった。

 でも、その笑顔は、さっき冒険者さんに素材の扱いを説明していた時より、少しだけ薄く見えた。

 男の人はそれだけ言うと、奥へ戻っていく。

 ミナさんの表情が、少しだけ曇った。

 ガルドさんは何かを言いかけて、やめた。

 セイルさんは気まずそうに視線を逸らしている。

 

 私は、リリーさんを見た。

 リリーさんはもう、次の書類に目を落としている。

 何事もなかったみたいに、羽根ペンを動かしている。

 でも、なぜか胸の奥が少し引っかかった。

 

「お待たせしました。素材確認が終わりました」

 

 リリーさんは、またこちらに笑顔を向けた。

 

「買取額はこちらです。分配は、ガルドさんたちとヒストリアさんで相談された割合に合わせて処理できます」

 

 ちゃんとした声で、ちゃんとした説明をして、ちゃんとした笑顔も浮かべている。

 けれど、私はさっきの声を聞いた時のリリーさんの顔を忘れられなかった。

 リリーさんは、今も笑っている。

 

 ——でも、楽しそうには見えなかった。

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