もぐもぐキューカンバー004
返事は、出来なかった。
不気味なまでに、全て見透かされる。けれど、今はそれを考える余裕すらなかった。沈黙が重い。空気があるはずなのに、溺れるみたいに、息苦しかった。
またあの光景が脳裏に蘇る。引きずり込まれそうになったあの時に見てしまった黒い手、そしてその先の、
思い出しかけて、やめる。
訝屋は何も言ってこなかった。この反応さえ予想できていた、そう思ってしまうほどブレないその目線で僕を捉えていた。
「ま、整理する時間だっているだろう。別に意地悪に追い込みたいわけじゃないんだ。ゆっくり噛み砕いて吟味して、それが終わってから、話してくれればそれでいい。」
そう言って、今度は皿谷の方へ向き直る。追及は終わった。それでも、何も終わった気はしなかった。
「次は、君だよ。皿谷 潜ちゃん」
皿谷は俯いたまま、濡れた前髪の隙間から、静かに訝屋を覗いていた。口に出さなくても、警戒しているのはその態度で明らかだった。
「君は、どうしたい?」
返事は無かった。膝の上で握られた小さな手だけが、少しだけ震えたように見えた。
「困ったな」
訝屋は頭を搔いた。困った、とでも言いたげな仕草だった。けれど、本当に困っているようになんて、見えなかった。
「俺は、それでもいいんだけど」
「……」
「少年が困っちゃうんだよね。このままだと」
真っ直ぐに少女の方を見ていた。何かを言おうと、少女の口が少しだけ開く、それでも言葉が出る前に躊躇ったような様子を見せてまた閉じた。
「親の名前が分からない。家も分からない。何も分からない。このままだと、君をどうしてあげたら良いのかわからない。」
「それって、結構。困るんだよ」
皿谷がピクリと震えた。俯いたまま、何度も口が開いて、閉じて。そうやってやっと一言。
「……ごめんなさい」
溶けてしまいそうな声だった。謝ることじゃないだろ、と口を挟みかけて辞める。
責任の所在を勘違いしている謝罪なのか、本当に自分を責めている謝罪なのか。今の僕には分からなかった。
「別に謝って欲しいんじゃない。どうしたいのか聞いてる。もっとも、ここが日本である限りは、最後にはちゃんと帰るべき所へ帰ってもらうけどね」
「ダメです」
訝屋の声を遮って、少女はそう言い切った。意外だった。今までで一番はっきりした声だった。
記憶もない。名前も曖昧。
それでも、その拒絶だけは迷いがなかった
「……ダメ、なんです」
「理由を聞いても?」
皿谷から答えは返ってこなかった。その代わり、俯いたままだけれど、少女はその頭を小さく振った。
「そっか」
訝屋はそれ以上追求することはなかった。再び沈黙が支配する。耐えられなくなったのは、皿谷の方だった。
「……親と」
震える。掠れた声。それでも少しづつ彼女は話す。
「警察は、嫌です」
「それはどうして?」
「それは……、ごめんなさい。わからないです」
本当に記憶が無いのなら、そういうものなのかもしれない。けれど、親の名前も思い出せないのに、親を嫌がることなんてあるのだろうか。
「わかった。じゃあ、そういうことにしておこうか」
訝屋はそう締めた。責める訳でもない。納得したふうでもない。ただ、今聞けることは終わった、そうとでも言いたげだった。それが逆に気味が悪かった。
「……いいんですか?」
終わった。訝屋はそう判断したらしい。けれど僕にはそう思えなかった。
何も分かっていない。何も解決していない。むしろ分からないことだけが増えている。
「何が?」
「わかってますよね。彼女の事。このままじゃ」
親も分からない。家も分からない。それなのに親と警察はダメだという。どう考えても放っておいていい、なんてそんな軽い話じゃない。
「別に良くは無いよ」
「なら、」
「思い出したい事がぽんぽん出てくりゃ、そりゃ世話ないんだけどね。それでも人間って奴はそんなに単純に出来てないんだよ。忘れてるのか、目を逸らしているのか、はたまたもうそこに無い物なのかもしれない。」
「お手上げ、ってことですか」
「おいおい、あんまり見くびってくれるなよ。そうは言ってないだろ。」
「ただ、本人が言えないなら、今はそこまでって話しさ。どうせ自ずと揃ってくる。」
訝屋はそう言って、チラリと皿谷の方に視線を映す。
「宛が無くなった訳じゃないんだよ。寧ろその1つだけが頼りだ」
僕の方を見る。嫌な予感がした。
「それは、」
「君の話だよ。君が一番触れたがらない部分」
思わず息を飲んだ。それでも訝屋は続ける。
「出来過ぎに見えてしまうんだよね」
「……何がですか?」
「まぁ、常識で考えるなら窒息による一過性の記憶障害。そういう話なんだろう。俺は医学に明るい訳じゃないから断言はしてやれないけど。……でも、どうにもきな臭い。君も薄々そうじゃないと気づいてる。だろ?」
「まぁ……まだ、あまり信じられませんけど」
「そして、君は少女の為に飛び込んだ、間に合わないのは嫌い、だったっけ」
「……そうですね」
「なら、尚更だ」
「君はその少女を助けたい。」
訝屋は少しだけ首を傾げた。
「なんで、そこだけは見なかったことにしたいんだい?」
「君が見たものが何だったのか。それが関係あるかは知らない」
「でも。関係ないと決めつけるには、少し出来過ぎてると思わないかい?」
「……」
見なかったことにしてしまいたかった。溺れかけたあの時、僕は確かにあの黒い手を見た。生ぬるい温度で、強引に引きづり込んでいく。そしてその奥のあの目と、きらりと光った装飾品。
見覚えがあった。でも、そう思いたくはなかった。
皿谷を見る。
小さな身体を縮こませるようにして、膝を抱えていた。何も思い出せないのに。それでも親と警察だけは嫌だと言った。
それだけは、忘れたくても忘れられなかった物だったのかも知らない。
だとしたら。
僕だけが目を逸らしていていい理由なんて、どこにも無かった。
「……わかりました」
一度目を閉じる。深呼吸をする。出来るだけ落ち着いて、感情がこぼれて行ってしまわないように。
「上手く整理できるか分かりません。でも、聞いてください」




