もぐもぐキューカンバー002
夢を見ていた。
誰かが笑っていた気がする。遠かった。近かった。風の音だったかもしれないし、声だったかもしれない。
何かを話していた気もする。肝心なところだけが思い出せない。まるで目が覚めることを見越して、先に隠されてしまったみたいだった。また僕はその霞を掴み損ねる。
夢は少しづつぼやけていく。
眩しいんじゃない。光だった。瞼の向こうから差し込む昼の日差し。頬に当たる風。どこかで鳴いている鳥。現実が少しずつ輪郭を取り戻していく。
そして最後まで残っていた夢の欠片も、それに押し流されるように消えていった。
喉が焼けるように痛かった。咳をしようとして失敗する。そこでようやく、自分がまだ生きているらしいと気付いた。
「やっとお目覚めかい、少年。全く呑気な昼寝だねぇ。首が長くなっちまったよ」
知らない声だった。
「目覚めは良いんじゃないかな」
知った風な口を聞く声だった。
瞼を開けば空が視界を埋める。深く青い空。雲が流れていく。背中に岩の硬さを感じる。
随分と見ていなかった景色だった。それこそ小学生の頃は当たり前だったのに。気づけばこうして空を見上げる事も無くなっていた。
次に見えたのは、逆光で陰る男だった。茶髪は寝癖なのかパーマなのか判別がつかない。何度も洗われて色の抜けたスウェットに、ジャージズボン。無精髭まで生やしているくせに、不思議と不潔には見えなかった。
猫背だった。だらしないとも、力を抜いているとも見える。河原に転がる流木みたいな男だった。そこにいるだけなのに、溶けるように景色に馴染んでいる
人を見かけで判断してはいけない。小学校で習う話だ。見た目が悪くたって本当は良い人なのかもしれないし、いくら見てくれが良くったって悪い人間はこの世にごまんといる。
その教えが正しく広がっていれば、世の詐欺師はもう少し食い扶持に苦労していただろう。
それでも、安心するべき場面だったはずなのに、不思議と最初に湧いた感情は安堵ではなく警戒だった。
助けてもらった相手に向ける感情としては失礼極まり無いけれど、今にも壺でも売りに来そうな、そんな雰囲気すらあった。
「おいおい、そんな顔するなよ。恩人さんが傷ついて涙ちょちょ切っちゃうぜ」
「してません」
「してるしてる。ソレは警戒してる顔だ」
「そんなこと」
「あるさ。当ててやろうか。少年は今、俺を詐欺師か何かだと思ってる」
「……」
「ほら。当たってるじゃないか。俺は怪しくなんてないよ、これっぽっちだって。そうだ。自己紹介でもしようじゃないか。お互いにね」
要するに、胡散臭かった。
「俺は、訝屋だよろしく。訝しげる屋さんで、訝屋、名前は依代の依で、訝屋 依。気軽に依って呼んでくれたっていいし、まぁ胡散臭いお兄さんでも反応してあげよう。宗教勧誘の人も、まぁ反応してあげよう。寛大で器用なんだ、意外だろ」
その無精髭はお兄さん、という年には見えず。一言一句に裏があるんじゃないかと、また警戒してしまう。それでも恩人に変わりはなかった。命を助けて貰いながら、自己紹介も出来ないほど僕の常識は腐ってなかった。
「××です。さっきはどうも、助かりました」
「気にしなくたっていいんだよ、元々釣りは得意なんだ。狙った獲物は必ず仕留める、それが僕の流儀なんだよね。まぁもっとも、実際に竿を握ったのは今日が初めてだったんだけど」
そんな適当なことを言いながら、訝屋さんは腕捲りをして見せる。露出した右腕にはやはり人二人を片手で持ち上げれるほどの筋肉は何処にも見当たらなかった。思い返すほど、あれは人間業じゃなかった。
「いったいどうやって、僕ら二人を引き上げたんですか?」
「見てなかったの? 腕だよ腕。こうして、こうやって、ひょいって。そうやって君ら二人を岸にあげた。何も難しいことは無い、それだけの話だよ」
「そうですか」
確かに、その説明には妙な説得感さえある気がする。それが到底不可能という点さえ除けば。
「で、そっちのお嬢ちゃんは? 君の名前はなんて言うの?」
その動いた視線を追った先で、ようやく意識から抜け落ちていたことに気付いた。必死に助けようとした、息すらしていなかった、そんな少女。
少し離れた岩の上に、その少女は膝を揃えて座っていた。お行儀よく、濡れたスカートの裾を抑えて。
ぱっつんに切りそろえられた前髪の、その隙間からこちらの様子を伺うように。確かな距離がそこにはあった。
それでも。
ゆっくり呼吸に合わせて肩が動く。その眼球が、僕と訝屋へ交互に動く。滴る水滴を払う、その手が動く。それが当たり前みたいに、彼女はそこに存在していた。
その姿から目が離せなかった。
ついさっきまで息をしていなかったはずなのに、ついさっきまでこの腕の中で冷たくなっていく気がしたのに。
今はちゃんと、生きている。
胸の奥にずっと刺さっていた棘が、ほんの少しだけ浅くなる。そんな気がした。
どうやら今回は、手遅れにならずに済んだらしい。
「残念だけど、黙ってたって俺は察してやれないんだ。察しの悪い男なんだ。人の心なんて読めたら苦労しないからね。読めたところで大抵ろくでもないし。だから、もう一度聞く。お嬢ちゃん、君の名前は?」
訝屋の問いに、その少女は目を逸らす。そうやってこっちを見たと思えば、横目に訝屋に視線を戻したり。定まらないように、その視線は揺れた。まるで正解を探しているみたいだった。
何度か視線が揺れた後、最後に彼女が見たのは訝屋さんではなく僕だった。
「私は……」
小さく息を吸う。
「皿谷 潜です」
そう、彼女は言った。
「なぁ、君。皿谷ちゃん。君は一体どこから来たんだい?」
「……」
「君は何をしてたんだい?」
「……」
「家は?」
「……」
「学校は?」
「……」
「へぇ。じゃぁ、そういうことにしておこうか」
そう言って、これまたわざとらしく首を竦める。その仕草はよく馴染んでいた。振り返り今度は僕に投げかける。というより、丸投げる。
「××君。どうやら俺は嫌われちまったらしい。」
「それは……たぶん、違うと思いますよ」
「ん?」
「嫌われてるんじゃなくて、怖がられてるんじゃないかと」
「へぇ。じゃぁ、そういうことにしておこうか。それでも、どっちだって変わんないだろうよ」
「全く年頃の女の子ってやつはこれだから苦手なんだよ。まぁ仕方ないさ、女の子の心ってのはいつだって秋の空だ。だったら俺には何も出来ない」
彼は白羽の矢でも立てるように、僕を指さす。
おいおい、安易に他人を指さすものじゃないぞ。
「皿谷ちゃんがこれ以上口を割らないんだ、君に聞くしかない。教えてくれよ××君。一体君は何をして、彼女をどうしたのか。俺が引き上げるに至った事の顛末を」
僕は話し始めた。
先程の生と死の狭間を流されるような体験を、そして川底へ誘われるあの恐怖を。
「───そういうわけで。僕ら溺れそうになり、川の底に沈みそうになり。そんなところを依さん、あなたに2人して引き上げられたんです」
勿論信じて貰えないだろう、荒唐無稽なあの黒い手については伏せる。
皿谷ちゃんのケツを眺めたことも、伏せる。
僕が語っている最中。訝屋のその茶々は一切のキレを失っていた。目の色が変わる。寧ろ、こちら側の彼こそ、本心寄りなのかもしれない。話を聞くその眼差しは真剣そのもので、呼吸が静かだった。
「へぇ。じゃぁ、そういうことにしておこうか。随分頑張ったね。無謀だったとも言える」
「ダメかとは思いました」
「だろうね」
「見立てが甘かったです」
「それは、君の本心じゃないだろ?」
先程までと同じような、ただの訝屋の戯言に違いなかった。そんな軽口が、それでも真っ直ぐに刺さる。
「例えば見立てが甘かったとして、君は本当に飛び込まなかったのかい? 例えば雨天だったとして、例えば濁流だったとして。君は立ち止まれるような奴なのかい?」
「……どうでしょうね。間に合わないのは、嫌ですから」
「まぁ、いい。今はそれでいい、じゃぁ問題は皿谷ちゃんだ。一体この子は何故そんなところを流れていたんだろうね。皆目見当もつかないね、こりゃぁ参った」
彼は振り返る。皿谷の方へ視線を移す。皿谷の肩が少しだけ跳ねた気がした。
「なぁ、皿谷ちゃん。どうだい秋の空は移ったりしてないかなぁ。何か話してくれる気にはならないかい?」
「……」
皿谷の肩が僅かに震えた。言葉が届いていないわけじゃない。返事をしようとしているようにも見えた。
実際、一度だけ唇が開いた。けれど何も出てこない。そのまま視線だけが落ちる。
「なにがダメだと思う? ××君」
「……詐欺師っぽいとこですかね?」
「おいおい。きみも割合い容赦がない方だなぁ。結構気にしてんだぜ、この名前と言い雰囲気といい。それでもこれは染み付いた生き様みたいなもんだから、どうこうできっこ無いんだよ」
「あとは、顔とか」
「それこそ、もっとどうしようもないとこだろ。ルッキズムには同意できないな。最もこれでも昔はプレイボーイと持て囃されるほどだったんだぜ、全く失礼しちゃうよ。今の子にはどうやら俺の魅力ってやつは、これっぽっちも通じないらしい。時代の変化って世知辛いよ」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
「だったら何が何が問題だっていうだい」
「それは……わからないですけど」
「君は無責任なやつだなぁ」
皿谷潜と名乗った時の事を思い出す。そのかぼそい声で、今にも消えそうな声、僕らに向けて彼女は言った。いや、違う。彼女は確か、僕の方を向いて名を明かした。そして訝屋が先程からいくら話しかけたって、頑なに彼女は口を閉ざす。
「なぁ、皿谷ちゃん」
何気なく、彼女を目を見て、声を掛ける
「……はい。」
小さな返事があった。
「おいおい、俺はガン無視だったのに、××君はOKなのかよ。あぁ、そうかい。それなら大丈夫だ、俺だって大人だからね。理解してあげよう。ストライクゾーンは人それぞれだ」
聞き流して、彼女に質問を続ける。できるだけ端的に、彼女が何を気にして、何に脅えてるかわからない以上、爆弾の表面でも撫でるようにそっと。
「何か、覚えてる事はないかな」
当たり障りなく、それでいて彼女が言いたい部分だけ言えて、それでいて必ず何かしらの手掛かりが掴める。そう考えた。
「無い、です」
無い。覚えている事は何も無い。
皿谷潜はそう言った。
「待ってくれ」
思わず、少しだけ強い語気で、僕は続ける。
「名前は覚えてるんだよな」
「はい」
「じゃあ家は」
「……わからないです」
「親御さんは」
「わかりません」
「学校は」
「……」
「友達は」
「……」
「じゃぁ、」
「その辺にしといてやれよ、××君」
胸の奥が冷たくなる。さっきまでとは違う種類の寒気だった。川の水なんかじゃない。嫌というほど知っている感覚だった。
また、僕は取りこぼしたのかもしれない。
川から引き上げた。息も戻った。生きている。それでも、間に合ったなんて、言えなかった。
もっと早く掴めていたら。もっと早く飛び込めていたら。もっと早く気付けていたら。そんな考えが、嫌でも頭をよぎる
「今ので十分、結論は出ただろ。この子、皿谷 潜ちゃんは、多分────」
「記憶喪失」
訝屋が言い終わる前に、僕の口からそれは出てきた。
「まぁ、そういう事だろうね」
訝屋は肩を竦める。
「名前だけは残った。あとは綺麗さっぱり洗い流された。そういう話だ」
「……」
「そんな思い詰めた顔すんなよ、それでどうこうなる話じゃない。皿谷ちゃんを見ろ、ちゃんとそこに居る」
不器用な慰め方だった。茶化すようでスカした、いけ好かない言葉だった。それでも、確かに皿谷潜が目の前にいる。それだけは変わらなかった。
「あの……ごめんなさい」
「いや、皿谷ちゃんが謝ることじゃないよ」
「そもそも君がそんな顔するからだろ。こんな小さな子に顔色伺わせるんじゃないよ」
「それは……でも、記憶喪失なんて」
「……いいんですよ。××さん」
「いや、いいわけ……」
良いわけないだろ。そう言いたかった。それでも彼女の目を見れば、言葉が詰まる。歳不相応だった。まるで何もかもに期待していないみたいな。
そんな、諦めが板に付いた目だった。
「そういうものですから」
それがまるで当たり前のことみたいに。雨が降れば濡れる。夜になれば暗くなる。そういう話をするみたいに。
記憶を失ったことも。自分が川を流れていたことも。全部まとめて受け入れているように。
そんなはずがないのに。そんなはずが、あるわけないのに。どうしてだろうか。
僕には、彼女の方がずっと大人に見えた。




