もぐもぐキューカンバー001
ケツだった。
そう、人間の臀部である。肛門周囲から大臀筋にかけての膨らみ。川から流れ来ているそれは間違いなく、ケツだった。
新学期になり学年がひとつ上がって高校二年生となった。クラスが変わり、担任が変わり、席が変わり、景色が変わる。怒涛の環境の変化が一段落したゴールデンウィーク。各々が羽を伸ばし、楽しむその大型連休。その初日。
早朝から釣りをしていた。小さな田舎には不釣り合いとも言えるほど、この街を横断する少しだけ名が通った二級河川。そのほとりで僕は目撃する。
小振りだった。遠目にそれだけはわかった。
……いや、そんな事を考えている場合じゃない。人が流されてる。冷静になって状況を整理する。顔が見えない。山に近いこの河川は、流れもある、底が見えないほどに深い。
1年前、この川で数人が流された事故が起きた。僕の知っている人も、その犠牲になった。数日後には新聞に名前が載った。だから、この川は好きじゃなかった。
川の音を聞くたびに、意識がそちらへ向いてしまう。思い出したくもないのに。どうしても、思い出してしまう。
だから、通学路も少し遠回りするようになった。幾度となく歩いた川沿いの河川公園にすら足を運ぶことはなくなった。
今日だって、本来なら来るつもりはなかった。
それなのに、ケツは流れてきてしまった。
それでも、こうやって感傷に浸る時間なんて、ありはしなかった。人が流されている。そして、このままだと〈間に合わなくなってしまう〉
本当に、飛び込めるのか。色眼鏡込でそれには迫力があった。得体の知れない、大きな何かの口にさえ錯覚する。踏み出せば飲み込まれてしまいそうで、足が竦んだ。
それでも。ちっぽけな勇気に任せて飛び込む。笑っていた膝も、徐々に落ち着きを取り戻していた。川底は脚がつかない程に深い、それでも幸運な事に流れはまだ穏やかな方に思えた。
5月上旬、張り付くように冷える。一年前も、こんな冷たさだったんだろうか。ずっと思考から避けていた、それでも考えてしまい喉の奥が固まる。
流されてるその人影に向かって一心不乱に水をかき分ける。全身が強ばり、ようやく自分が焦っていることに気がついた。水膨れした服が纏わりついて抵抗が増え、不快だった。
考え無しに飛び込む前に脱ぐべきだった。いつだってこの川で遊ぶ時はパンツ一丁なんて当たり前だったじゃないか。意固地に記憶から目を背ける罰が当たった、そう思えてしまった。
気持ちが早る。しかしどれだけ力を振り絞っても徐々にしか距離はつまらない。如何に自分がちっぽけな人間なのか、そう突きつけられているような気がした。
それでも、間に合わない、それだけは許せなかった。
やっとの思いで腕を掴んだ。細い、細い手首だった。手繰り寄せてみればずっと華奢で、全身が脱力していて、人形を思わせる程生気を感じられなかった。
「おい!しっかりしろ!」
声が震える。子供だ。
肩を揺らして何度も何度も呼びかけた、医療意識なんて持ち合わせていないけれど、このままじゃ不味い。それだけは理解することができた。口元に手を当てる、息をしていない。
血の気が引いていくのを感じる。酷い顔をしてるに違いなかった。それでも、それでもここで諦めるなんて出来やしなかった。彼女の肩を抱き寄せ岸に向かって泳ぎ始める。
幾ら二級河川とはいえ川幅なんてたかが知れている。10数m、大したことない頭で岸に上がった後、自分がすべき事を組み立てていく、人工呼吸が先か? いや先に肺に入った水を出すべきか。
元来僕は他人を助けるような性格では無かった、もっといえばここ1年他人が死のうが死ぬまいが、もっともっと言ってしまえば自分の生死さえ、そう興味が無くなっていた。
それでも。いざ目の前にそんな状況となってしまえば、自分でも驚いてしまうほどに話は全く別だった。
間に合わない。手の隙間から全てが零れていくその悔しさを、僕は知っていた。何度も夢に見た感覚だった。
この川は1年前幼なじみを奪った。今度は目の前で奪われるところを見るなんて、到底許容できない。目覚めが悪くなる。嫌いな場所が、もっと嫌いになる。
もう少しで岩場に腕が届く、あと少しだった。
あと少しでひとまず安心出来る。
こういう時に限って、世の中はろくでもない。
水面が視界を飲み込む。遅れてなにかに足を取られたと気付く。
ありえない。右足に強い違和感があった。釣り人が捨てた道糸でも引っかけてしまったか。足を振って解こうとした、手応えは芳しくない。
嫌な汗が滲む。足を更に振っても、緩まない。外れない。まるで意思でもあるかのように、それは離れない。そろそろ息が持たない。足を引こうと試みる、引けない、それどころかゆっくりと僕の方が引かれて行く。
心臓が跳ねた。このままじゃ、2人まとめて土左衛門だ。もし独りだったなら、それも良かったと受け入れたかもしれない。でも今はそうじゃ無かった、小さい命を、この腕に預かっている。
漠然とした嫌な予感が頭を占めていた。本当はわかっていたのかもしれない、その引っ張り方は紐や網みたいな細い物じゃ有り得なかった。
濁った水の中をかき分けるように頭を沈める、ボヤけて殆ど何も見えない。見えないはずだった。それなのに、僕は何故かわかってしまった。
それは手だった。黒い手が掴んでいた。
理解ができなかった。指が五本あった、まるで人間の手みたいだった。生暖かい体温が伝わってくる、人間みたいだった。それでも手首から先は無かった。
もう片方の足で蹴りつけたって外れない。掴まれ強く水底へ惹かれているのに、握り潰されるような力は無かった。
「━━ッ、」
必死の思いで水面から顔を突き出し、声にならない声を叫んだ。手を伸ばす、誰でもいい。この少女にこんな所で、みすみす命を落としてほしくなんて無かった。
「元気がいいねぇ少年」
その声と共に、今度は右腕から強く陸へと引っ張り上げらる。見上げれば、対岸で釣りをしていた中年男性が文字通りに僕らを一本釣りしていた。
助かった。冷めた岩の温度を顔で感じる。疲労の限界だ、泳ぎ疲れた、噎せ疲れた。運動器も呼吸器もレッドランプで肺から血の味さえする。
男性はそれほど筋肉質には見えなかった。なのに、人二人を軽々引き上げた。わけがわからなかった。
いや、今はそんなことはどうだっていい。
右を見やる。僕の右腕はちゃんと少女を抱えている。それだけで良かった。安堵する、ゆっくりと意識が落ちた。
こうして僕は、少女と、黒い手と、
あの人に出会った。
その時の僕はまだ知らない。
捨てたつもりだった思い出の方が、
ずっと僕を離してくれていなかったことを。




