2.伊神澄子
伊神製薬本社勤務となったわたし達は、水城市内でそれぞれに住まいを決めました。わたしにとって四年ぶりの故郷は、しかし相変わらず、平和で静かな土地でした。
懐かしくも新しい春からの生活。滑り出しは順調でした。
途中のバス停で待ち合わせをして、桜介さんと一緒に出社して。仕事終わりにレストランで食事をして。たまにはお互いの家に泊まったりなんかもして。満ち足りた日々以外のなにものでもありませんでした。
けれどそんなものは、一年と続きません。
次第に、桜介さんと会える日が少なくなっていったのです。
始めのうちは仕事が忙しくなってきたのだろうと思っていましたが、一週間、一ヶ月と経つうち、連絡すら取れなくなっていき。どんなに忙しくても、メールだけは返してくれていた桜介さんは、季節が秋へと移ろう頃には、それすらなくなってしまいました。
桜介さんの体調の心配と、桜介さんの気持ちが今どこにあるのかという不安とが募った頃。
遂に、事態は動き始めました。
一段と冷え込んだ、二月の夜。
その日も、桜介さんと連絡はつきませんでした。いつものことだと思いながら、しかし、心配でたまりません。
というのも、その頃の水城市内では、物騒な事件が多発していたのです。
強盗事件に殺人未遂事件、誘拐に暴行事件等々――のんびりとした空気の漂う水城市とは思えないほど、犯罪事件が急増していました。つい昨日だって、会社の近くで暴行事件が起きています。
いえ、それだけであれば、単に治安が悪化したというだけで済むのですが、これらの事件には、気味が悪いほどの共通点がふたつありました。
まず、犯人の精神状態がひどく不安定だということ。
次に、事件当時の犯人の記憶がすっぽりの抜け落ちているということ。
精神状態には個々でばらつきがあるようでしたが、記憶の抜け落ちかたは完全に一致していたと聞きます。どの事件の犯人も、「自分はいつも通りに過ごしていた。途中、記憶が途絶えて、気がつけば犯罪を犯していた」と供述するのだそう。
怨恨の末であるとか、人間関係のもつれであるとかいうことは一切なく、いっそ通り魔的と言ったほうが良いような犯罪ばかり。事件に繋がるような予兆はなにひとつなく、突発的で衝動的。テレビでは、集団催眠ではないかと報じていました。
別に、連絡が取れないのは今日に限った話じゃない。きっと残業しているだけ。
頭ではそうわかっていても、正体不明のざわつきは勢いを増して肥大していき、気がつけば、私は会社に向かって走っていました。
桜介さんの身になにかあったらどうしよう。
頭の中は、昨日会社の近くで発生した暴行事件のことでいっぱいでした。
怖くて怖くて、自然と足が速まります。
時刻は午後十時。
終業時刻はとっくに過ぎていて、当然、電気もほとんど消えています。
わたしは一度警備室へ顔を出し、小さい頃からお世話になっている井東さんに、桜介さんを迎えに来た旨を話し、中に通してもらいました。
電気が消えて真っ暗な廊下。けれど、井東さんが貸してくれた懐中電灯があるから、物にぶつかって転んでしまう心配はありません。わたしはしっかりとした足取りで、桜介さんの所属する研究室へと向かいました。
「桜介さん。わたしよ、澄子よ」
ノックをして、研究室に入ります。
すると、奇妙なほどがらんとした風景が飛びこんできました。
電気も点いていなければ実験器具がひとつもない、がらんとした研究室。
その不可解な光景の中に、桜介さんはさも当たり前のように佇んでいました。手元には唯一荷物と言えそうな鞄がありましたが、それだけです。それは、決して帰宅の為の身支度ではありません。どう見ても出張ですらではなく、二度とここへは戻らない為のものでした。
「ど、どうしたの、桜介さん。その荷物は……?」
「……。君こそ、こんな時間にどうしたんだ?」
わたしの質問には答えず、桜介さんは言います。
その態度は、いつもと変わりありません。それが、ひどく不気味でした。
「わたしは、桜介さんの帰りが遅いから、迎えに……。最近はとても物騒だから、心配になって……。ねえ、それよりも、その荷物はなに? これから何処へ行くつもりなの……?」
そう尋ねるわたしの声は震えていました。
様々な感情が身体の内でない交ぜになって、涙が出そうです。
「ね、ねえ桜介さん、今夜はわたしの部屋に来ない? わたし、ビーフシチューを作ったのよ。ビーフシチューは、桜介さんの好物でしょう? だから――」
ゆっくりと、桜介さんへと歩み寄ります。そうして、桜介さんの持っている荷物を下ろさせようと手を伸ばした、そのときでした。
「触るな!!」
怒号と共に、思いきり突き飛ばされたのです。
咄嗟のことで全く反応できなかったわたしは、受け身も取れず床に弾き飛ばされました。
「これは、お前が触って良いものじゃない!!」
そう怒鳴る桜介さんの表情は、わたしにとって初めて見るものでした。
鬼気迫る顔。
わたしを害と見なす顔。
わたしの知らない表情を浮かべ、深くため息をついて、桜介さんは言います。
「あーあ、ったく。面倒なのは嫌だから、勘づかれる前に消えようと思ってたのに。澄子、君って最悪。タイミング悪過ぎ」
「お、桜介さん――」
この人は、誰なのでしょう。
本当に桜介さんなのでしょうか。
桜介さんは、もっと優しい言葉遣いで、丁寧な喋り口をする人で――こんな、底意地の悪い喋りかたなんて、しないはずです。
茫然とするわたしに、桜介さんは続けます。
「うるっさいなあ。僕は僕だよ、深津桜介さ。お前が僕に勝手な理想を押しつけて、勝手に僕に好意を寄せただけだろうが。勘違いするなよ、僕は澄子のことなんて、好きでもなければ嫌いでも――いいや? 僕はお前みたいな世間知らずのオジョーサマってのが、大嫌いだな」
ただまあ、と桜介さんは、抱えていた荷物――それは検体輸送箱であるようでした――そのひとつを、愛おしそうに見つめました。
「これを作る為に、お前はとても役に立ったよ。さすが伊神製薬、僕が求めているものを、こんなに早く造ることができるなんてなあ! 大嫌いなお前に、優男の振りをしていた甲斐はあったってわけだ。伊神製薬の一人娘の婚約者って立場は、思いの外便利だったよ」
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