3.伊神澄子
「それは、なに?」
訊きたいことはたくさんありましたが、わたしの口から出た質問は、それだけでした。
「良いよ、教えてやる。これはお前が無能なおかげで完成したも同然だからな」
目を輝かせ、桜介さんは検体輸送箱の中から一本の試験管を取り出しました。
試験管の中で、赤い液体が揺れます。
「これはさァ――スクラヴって言って、どんな願いでも叶えてくれる、夢みたな薬だ。飲んだ奴の理性を綺麗さっぱり吹き飛ばして、命令された通りに動くだけの駒にできるんだぞ」
「そんなの……」
「違法薬物だって? はっ、それがどうしたって言うんだ。そんなくだらない制約に縛られてるから、人間はどんどん駄目になっていくんだ。僕は常々、人間ってのはもっと感情的に生きるべきだと思ってたんだよ。だって人間は本来、汚らしくて、どす黒くて、凶悪で、乱暴で、最悪なもののはずだ。感情に表と裏があるからこそ、人間って生き物は素晴らしいと思っていたのに――誰もがそこから目を逸らしてしまっている。僕はそれが、ひどく気味悪くて仕方ない!」
だからさあ、と、桜介さんは赤い液体の入った試験管を、うっとりと見つめます。
「こんな病的に綺麗な社会は、一度ぶっ壊れるべきなんだよ。僕は、その起爆剤を造り出しただけに過ぎない」
恍惚と。
桜介さんは悦楽に浸ります。
「…………」
反面、わたしはなにも言えないまま、その場に座り込んで動けずにいました。目の前で起きていることが非現実的すぎて、身体が動いてくれないのです。
これが、いつの日か言っていた「人類に変革をもたらすようなことをしてみたい」の真意なのでしょうか。
そんなことの為に。
そう思ってしまいますが、事実、わたしは滑稽なまでに利用されていました。
桜介さんはただ、警戒されないよう『伊神製薬の一人娘』であるわたしに近づき、伊神製薬との繋がりを強くできれば、口実はなんでも良かったのでしょう。
そして、その為には恋人が一番都合の良かっただけ。
それだけでした。
初めてレッテル抜きでわたしを見てくれる人と出会えたと思っていたのに。
その桜介さんが、他の誰よりも一番レッテルを利用していました。
ああ、馬鹿だなあ、わたし。
みんな、ちゃんとわたしを見てくれていたじゃない。
だって桜介さんは『伊神製薬の一人娘』のビジネスパートナーではなく、『伊神澄子』の恋人だったのですから。仕事面での割り切った関係でなく、わたしが個人的に親しくしているだけの人を、みんな信用してくれていたのです。
それが『伊神澄子』への信頼でなくて、なんだと言うのでしょう。
悔しくて、涙がこぼれました。
「いかないで……桜介さん……」
未だ震える声で桜介さんの腕を掴み、わたしは言います。
「今までのが嘘なら、それでも良い。わたしは気にしない。わたしに駄目なところがあるのなら、直す努力をするわ。わたしにできることなら、なんでもする。だから桜介さん、行かないで。そんな薬の開発なんてやめて、やり直しましょう……?」
桜介さんに、そんな道へ進んで行って欲しくありませんでした。桜介さんがわたしのことを嫌いであろうと、わたしは桜介さんを愛していました。嘘で塗り固められた日々だろうと、わたしにとってそれは大切な日々であり、捨て難いものだったのです。
こんなことで、桜介さんと二度と会えなくなるのは御免でした。
「ここまでかたちにできれば、澄子、お前はもう用済みだ」
虫でも払うかのようにわたしの手を振り払って、桜介さんは言います。
「昨日までの実験で、大体の調整は終わった。もう僕がここに居続ける理由はない。あとは僕一人の力でどうにでもなる。いやあ、ここの人間は呑気な奴らばかりで、本っ当に助かったよ。そういう意味では、この街は最高だな」
「っ?! まさか……」
急激に増加し始めた犯罪事件。
不気味なほど共通する、犯人の精神不安定と記憶の欠落。
桜介さんが密かに造っていたという薬。
それが昨日までの実験で大体の調整が終わったということは、つまり。
「街の人を使って、実験を……?」
と、その刹那。
「澄子ちゃーん? なかなか帰ってこないけど、なにかあったんかい?」
扉を開けて研究室に入ってきたのは、さきほど警備室で会った井東さんでした。
あれからどれだけ経ったのか、井東さんは心配して様子を見に来てくれたようです。
「……うん? お取り込み中だったかい? だけども深津さん、未来の嫁さんを今から泣かすようじゃいかんぞ」
右手に持っていた懐中電灯の明かりで、わたしと桜介さんの顔を交互に見ながら、井東さんは言いました。きっと泣いているわたしを見て、喧嘩をしていると思ったのでしょう。
「――良いこと考えた」
不意に照らされた桜介さんの口元が、にぃっと歪むのが見えました。
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