4.伊神澄子
桜介さんは机の上に置いてあった注射器を手に取ると、井東さんとの距離を一気に詰めました。そうして彼の左手の袖をめくったかと思うと、その注射器で赤い液体を井東さんに流し込んだのです。
どんな願いでも叶えてくれる夢のような薬――スクラヴ。
理性が吹き飛ばされて、命令された通りにしか動けなくなると、桜介さんは言っていました。
そんなものを注入された井東さんは、大きな音を立てて膝をつきました。
うな垂れる井東さんの耳元で、桜介さんは囁きます。
「伊神澄子を殺せ。伊神澄子を殺せ。伊神澄子を殺せ」
呪文でも唱えるかのように三度、『伊神澄子を殺せ』と繰り返しました。
決して間違えることのないよう、入念に。丁寧に。
「澄子さァ、さっき言ったよな。『わたしにできることなら、なんでもする』って。だったら、実験に協力してくれよ。いろいろ試してはみたけど、この薬を使っても、まだ人殺しには成功していないんだ」
楽しげに言いながら、桜介さんは井東さんの背中を軽く叩きました。
すると、それをスイッチにしたかのように井東さんの身体は一度大きく痙攣し、次の瞬間には、信じられない早さで立ち上がったのです。
いつも気さくな笑顔を向けてくれる井東さんは今、無表情でわたしを見つめていました。
いいえ、それよりもぎょっとさせられたのは、井東さんの瞳の色です。
幼い頃から見慣れた井東さんの茶色の瞳が、今は血のように深い赤色になっているではありませんか。
「そうそう、これくらいの色素減退が欲しかったんだ。いかにもって感じだな」
立ち尽くす井東さんをじろじろと観察し、桜介さんは嬉々としていました。
「桜介さん……? ねえ、まさか、嘘でしょう……?」
なにもかもが信じられなくて、わたしは桜介さんの名前を呼びました。
愚かにも、このときのわたしはまだ、質の悪い冗談だと思っていたのです。
「嘘じゃないんだって。本っ当、お前って面倒な女だな」
侮蔑する目でわたしを見た後、桜介さんは井東さんに、
「さて。お前はなにをすれば良いか、わかるな?」
と問いかけました。
「……伊神澄子ヲ、殺ス」
伊藤さんはそれに、無感情な声で答えます。
「伊神澄子ヲ殺ス伊神澄子ヲ殺ス伊神澄子殺ス殺ス殺ス――」
桜介さんが井東さんに下した命令を口にするたび、その虚ろな赤い瞳に、生命力が宿っていくようでした。
「くはは! 良いぞ、その調子だっ!」
「お、うすけさ――」
刹那、なにかが顔の左側をものすごい勢いで通り抜けて行きました。
少し遅れて、壁になにかがぶつかり、壊れる音。
見れば、井東さんが持っていた懐中電灯が、粉々に散らばっていました。
あれに当たっていたら、どれほどの怪我を負ったでしょう。そう思わせるほどの威力で、懐中電灯は投げられたのです。
「伊神澄子ヲ殺ス」
懐中電灯をわたしに投げつけたのは、間違いようもなく井東さんでした。
本当にわたしを殺す気でいるのです。
わたしが子供の頃からここで働いている井東さんが、わたしを自分の娘のように思っていると言ってくれた井東さんが、なんの躊躇いもなくわたしに攻撃してきました。
こうなってしまえば、薬の効果が本物なのだと信じるほかありません。
桜介さんの言っていたことは虚勢でも虚言でもなく、毅然とした事実だったのです。
ここにきてようやく、わたしは恐怖に全身を包まれたのでした。
「じゃあな澄子、これでさよならだ。僕の為を思うのなら、潔く殺されてくれ。くはは、明日の朝刊が楽しみだ」
言いながら、上機嫌に桜介さんは荷物をまとめ始めます。
「っ、待って、桜介さん!!」
桜介さんを追いかけようと立ち上がった途端、視界ががくんと揺れました。
そうして気づけば、わたしの身体は壁に叩きつけられていたのです。
井東さんに投げ飛ばされたと頭が理解したのは、遅れてやってきた痛覚によってでした。
「い、とうさ……、おうすけ、さん……」
ぐらつく意識の中で、桜介さんが研究室から出ていくのが見えました。
早く後を追わなくちゃ。
そうしないと、きっともう二度と会えなくなってしまう。
「まって……いかないで……」
必死になって伸ばした手は、虚しく空を掴むだけでした。
あまりの痛みに、身体が思うように動きません。
「伊神澄子ヲ殺ス……殺ス……」
片言のようにそれだけを呟きながら、井東さんがわたしのほうへと向かってきます。
朦朧とする意識の中で、とにかく井東さんを正気に戻す方法に考えを巡らせました。
ここで殺されてしまえば、井東さんは悪者になってしまいます。その後の井東さんがどうなるかなんて、想像するに堪えません。
そうしない為には、この場を乗り切るほかありませんでした。
井東さんの為にも。そして、桜介さんの為にも。
「伊神澄子ヲ殺ス……伊神澄子ヲ殺ス……伊神澄子ヲ殺ス……」
何度も途切れそうになる意識を必死に繋ぎとめて、研究室内を見回します。
なにか、活路となるものがあるはず。
というのも、このがらんとした研究室は、全ての物が持ち出されたわけではなかったのです。
実験器具は軒並みなくなっていましたが、作業台の上には、まだ注射器や試験管が置かれたままになっていました。きっと桜介さんが一番最後に持ち出そうとして、間に合わなった物たちなのでしょう。
「殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス――」
井東さんが、拳を振り下ろします。
殺されるという恐怖に背中を押され、なにを考える間もなく、ぎりぎりのところでそれをかわしました。
が、それだけでした。
井東さんの攻撃を避けるので精一杯で、その次に繰り出された攻撃には、どうしたって対処できなかったのです。
「、がっ……!」
あっという間に井東さんに捕まったわたしは、そのまま、作業台の上に叩きつけられました。あまりの威力に、息ができません。
「いと……さ……、やめ、て……」
それでもどうにか声を振り絞り、呼びかけます。
ほんの一瞬だけ井東さんの動きが鈍ったような気がしましたが、そんなのは、どうやら気のせいだったようです。わたしの願望が、そう見させてしまっただけのようでした。
押しつけられた殺意でもって繰り出される井東さんの攻撃は、休む暇を与えません。その度わたしの身体は痛めつけられ、このままでは殴り殺されてしまう、と直感しました。
井東さんに、殺されてしまう、くらいなら。
感想や評価等、お気軽にどうぞ!




