1.伊神澄子
少しだけ、昔の話をします。
水城市限定の都市伝説――『叶え人』と『闇子さん』。
その発端となる話です。
いえ、話すなんて言っても、これはわたしの独白でしかないのでしょう。それでも誰か一人、話す対象が居るとすれば、それは墨子以外ありえません。であれば、これは独白と言いきってしまっても問題はないはずです。
これは決して忘れてはならないこと。
だからわたしは、忘れたくても忘れません。
何度でも思い出します。思い返します。
始まりは、今から五年前。
わたしこと伊神澄子が、大学三回生の頃でした。
春の桜も散り、新しい授業にも慣れ始めた頃、わたしは桜介さんと出会いました。
そのときのことは、今でも委細しっかりと覚えています。桜介さんにどんな意図があったにせよ、当時のわたしにとって、彼の言葉はそれだけ印象的だったのです。
「ちょっと自意識過剰なんじゃないかな。誰も君を伊神製薬の一人娘だからって敬遠してないと、僕は思うけど」
その言葉だけを聞く限りにおいて、好印象を抱く人など居ないでしょう。けれど当時のわたしにとって、それは嬉しい言葉以外のなにものでもありませんでした。
伊神製薬。
それは、わたしの家族が取り締まる大手製薬会社の名前です。国内売上シェアは三十パーセントを維持。テレビでCMも多く放映しており、認知度は相当なものです。
社長を務める父の収入はそれ相応にあり、わたしの暮らしは平均よりも幾分かは裕福であったのだろうと思います。
小学生の頃までは『伊神製薬の一人娘』として、それに見合う人間になれるよう振る舞っていました。気丈で、誰に対しても平等に接し、笑顔を絶やさない――そんな理想的な人間を、演じていました。
けれどふとした折、わたしは気づいたのです。
どれだけ理想的な人間を目指し、そのように振る舞ったところで、誰もわたしを、『伊神澄子』を見てなどいないということに。
所詮は『伊神製薬の一人娘』であるが故。
それが当たり前のこと。
『伊神製薬の一人娘』が『伊神澄子』である必要など、どこにもありませんでした。
それまでわたしを支えていた『伊神製薬の一人娘』という周囲からの目は、以来、わたしの足枷となりました。周囲の期待通りに振る舞えなくなったのも、その頃だったと記憶しています。
本当は消極的で、人前に出るようなことはしたくないわたしには、不似合いな生きかただったのでしょう。素のわたしで他人と接すると、次第に周りから人は消えていきました。元々目つきが悪いことも手伝って、その速さたるや、思わず笑ってしまいそうなほどです。
そんな孤独な時間を過ごしてきたわたしの前に現れたのが、桜介さんでした。
わたしのことを全く知らなかった桜介さん。
知っても尚、その気さくな態度を変えなかった桜介さん。
ああ、この人なら『伊神澄子』を見てくれる。
そう思いました。
それからの行動は自分でも驚くほど早いもので、桜介さんと出会ってから一ヶ月も経たないうちに、わたしは桜介さんに告白したのでした。
「僕で良ければ、喜んで」
桜介さんはそう言って、にこりと笑みを浮かべました。
薬学部の五回生だった桜介さんは研究で忙しい日も多く、会えない日が続くことなんてしょっちゅうでした。それでも、これまでで一番満ち足りた日々だったことに違いはありません。
時間を見つけてはどこかへ出かけ、いろんな話をしました。大学で専攻しているものの話、昔飼っていたペットの話、好きな天気の話、食べ物の話、季節の話――そして、将来の話。
「僕はいつか、人類に変革をもたらすようなことをしてみたいんだ」
デートの帰り道、ふと立ち寄った高台の公園で、桜介さんは言いました。
夕食では二人してお酒を飲んでいて、とてもご機嫌でした。
「人は、いろんな枷に縛られて生きている。その枷を、僕は取り払えるようになりたい」
薬学部に所属する彼のこと、わたしはそれを、薬によってなにかを為さんとするものだと捉えました。病気で苦しんでいる人を少しでも減らしたいという、強くて立派な意思がその目には宿っているのだと――勘違いしたのです。
その当時、わたしは大学四回生で桜介さんは六回生。
四年制の薬学部に属し、早々に内定を決めたわたしと違い、六年制に属する桜介さんは、年末を目前に迫ったこのときも、就職活動の真っ只中にいました。
「桜介さんは、製薬会社に的を絞って就活しているのよね?」
「研究職に就きたいからね。そこでしか、僕のしたいことはできない」
それなら、伊神製薬の試験を受けてくれたら良いのに。
成績優秀な桜介さんのこと、合格は間違いなしです。
なにより、もしそうなれば、春からは同じ職場へ通えるかもしれません。
「澄子はもう内定が出てるんだよね。どこだったっけ?」
「伊神製薬よ。わたしも、薬に関わる仕事はしたかったから」
レッテルを貼る周囲の目は嫌いでしたが、家族が真剣に取り組む仕事それ自体は、昔から好きでした。桜介さんほど大きな目標はないにしても、家族ぐるみで行っている仕事に加われるというのは、とても喜ばしいことです。
「……あー、実はさ、昨日、ひとつ内定が出たんだ」
気まずそうに頬を掻きながら、桜介さんは言います。
「今日一日、ずっと言おうと思ってたのに遅くなって、本当に申し訳ないんだけど……」
その言葉の続きを、わたしは息を飲んで待ちました。
「伊神製薬の、研究職。そこに決まった」
「本当に?! 桜介さん、おめでとうっ!」
それが近い将来、どんな悪夢に繋がるのか。
なにも知らないわたしは、手放しに桜介さんの内定を喜びました。
「それでさ、澄子」
ひんやりとした夜風が吹く中、桜介さんはそっとわたしの手を握ります。
「これで僕の卒業後の進路も決まったわけだし……あの、その……」
夜だというのに、桜介さんが真っ赤になっているのがわかりました。耳まで真っ赤です。繋いだ手から緊張も伝わってきて、つられてわたしまで心臓がどきまぎしました。
「澄子。卒業したら、ぼ、僕と――」
顔を真っ赤にして、少し涙目になって、震える唇から、桜介さんは言葉を紡ぎます。
「僕と、結婚を前提に、お付き合いしませんか」
「……」
桜介さんが真剣にこれからのことを考えてくれていたということが嬉しくて、わたしは目一杯の笑顔で答えました。
「はい。わたしでよければ、喜んで」
そうして、互いの実家に顔を見せに行き来したり、卒論の仕上げに追われているうち、わたし達は大学を卒業しました。
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