6.古代椎良
帰るべき家。
帰りたくない家。
どこの家庭にもなにかしらの不和はある。こんなのは普通なんだ。俺だけじゃない。
そうやって自分を説得しているうちに、エレベーターは十四階に到着した。俺が降りると、エレベーターはすぐさま下の階へと戻っていった。
みんなが家に帰る。家に帰る為に、エレベーターは動く。
現在の古代家である1404号室の前に立ち、鍵を取り出そうとして、小井川さんがついさっきまでここに居たのだから、母さんも帰ってきているのだと気づく。それでも一応、鍵を片手に用意して、ドアノブを回してみる。案の定、鍵はかけ直されていて、俺は用意していた鍵を差し込み、ドアを開けた。
「ただいま」
誰からの返事もないとわかっていながら、そう呟いてリビングに入る。
途端、俺は顔をしかめた。
不快な臭いが、部屋に充満していたのだ。これは、酒か?
そう思ってよく見れば、テーブルの上にはビールの空き缶が数本と、中身が半分ほど残った一升瓶が転がっているではないか。そしてそれらに囲まれるようにして、母さんはテーブルに突っ伏して寝ている。臭いの原因は、明らかにこれだった。
小井川さんと喧嘩でもしたのだろうか。それで焼け酒? ……いや、小井川さんのあの様子は、絶対に喧嘩をした直後とは思えない。どうしたというのだろう。
焼け酒の原因を考えつつ、母さんを起こさないように抜き足忍び足でテーブルの隅に学校で配られたプリントを置き、物音を立てないよう気をつけながら自分の部屋へと入った。こういうときは放っておくのが一番良い。下手になにか言って、ぶたれたくはなかった。
3LDKの賃貸マンションであるこの家の、二番目に広い部屋が俺に与えられている。一番広い部屋は母さんで、一番小さい部屋は母さん専用の物置だ。しかし別段、いつも二番目に広い部屋を与えられているわけではない。今回の間取りで、極力顔を合わせない部屋割がそうであっただけ。それだけだ。
部屋の電気を点けて、スクールバッグをベッドの上に投げる。マフラーとコートを脱いでハンガーに掛け、勉強という用途ではほとんど使われていない学習机に向かった。
「ただいま、父さん」
机の上に飾ってある写真に向かって、俺は再び帰宅の挨拶をした。
それは、今となっては唯一となってしまった家族写真。
あの日本家屋を後ろにして、父さんと母さん、そして五歳の俺が写っている。
この頃の俺は、まだ普通に笑えていた。
髪を伸ばして表情を隠そうとなんて、考えもしなかった。
全員が笑顔で、とても幸せそうだ。
事実、このときが一番幸せだったのだろう。
「いってきます」と言えば「いってらっしゃい」と返し、「ただいま」と言えば「おかえり」が返ってくる。あの頃は、家の中に温かい言葉が溢れていた。懐かしい。素直にそう思う。
心の底から楽しいと思って笑ったのは、いつが最後だろう。
もうずっとずっと前のような気がする。
もしもあの頃に戻れたら、と思うことは少なくない。寝に帰ってくるだけの家よりは、断然良い。だけど、わかっている。そんな馬鹿げたもしもの話なんてのは、想像するだけ無駄なんだ。漫画じゃあるまいし、タイムスリップなんてできるはずもない。不可能だ。
だから俺は、静かに生きていくしかない。
少なくとも、高校を卒業するまでは。
母さんの迷惑にならないよう、静かに、静かに。
「ねえ。帰ってきてんの?」
ノックもなしに、ドアが開く。声の主は、言うまでもなく母さんだ。
酒に酔って目の座った母さんは、不機嫌そうに俺を睨みつけてくる。
おかしいな、今日はまだ、なにも癇に障るようなことはしていないはずなんだけれど。
コンビニで買ってきた夕飯だって、あまりにおいが強いものではない。そういうものは選ばないように、いつも気をつけている。
足音がうるさかった? ドアを開ける音か? それとも呼吸の音か?
思いつく限り原因を挙げていく。そのどれもが母さんの不機嫌な理由のような気がして、とにかく謝ろうと口を開いた、その途端。
「話があるの。ちょっとリビングに来て」
と、母さんは言った。
「は、話って……?」
「すぐ済む。良いから来なさい」
やはり不機嫌のまま、母さんはそれだけ言うと、リビングへと引き返して行った。
母さんの意図が全く読めないまま、俺は慌てて母さんを追ってリビングへと向かう。
テーブルを挟んで向かい合うようにして椅子に座ったところで、母さんは視線を手元に落としたまま、
「近いうち、小井川さんと結婚しようと思ってるの」
と、前置きなしに本題に入った。
俺と母さんの会話には一切の無駄がない。極力最低限の会話になることを最優先にしているのだ。
「……そう、なんだ」
だからこのときばかりは、さすがの俺も動揺を隠せなかった。
まさか真正面から切り込まれるとは、完全に予想外だった。自分でも視線が泳いでいるのがわかる。
落ち着け、最初からわかっていたことじゃないか。仕方ない。大丈夫。
心の中で自分を説得しつつ、目の前のグラスを両手で握った。珍しく、母さんが俺にジュースを注いでくれたのだ。赤い色をしたこれは、アセロラ味だろうか。とにかく、これを飲んで落ち着こうと思った。
しかし突然、母さんがその手を勢いよく掴んだのである。
グラスの中に入ったジュースが、小さく揺れた。
「な、なに、母さん」
「それを飲む前に、話を聞きなさい。大事な話だから」
「……ごめんなさい」
俺がグラスから手を離したのを見て、母さんも同じく俺から手を離す。
「それで」
視線は落としたまま、母さんは言う。
「今度の引っ越しに、あんたは連れて行かないことにした」
「――っ」
言葉も出なかった。
息が、詰まる。
しかし母さんは、そんな俺など視界の端にも捉えず、淡々と続ける。
「あんた、あと一年とちょっとで高校も卒業でしょ。新居にあんたの部屋を用意するの、面倒なの。わかってると思うけど、あんたが居ると邪魔で仕方ないんだよね」
「じゃま……」
「家事は一通りできるんだから、もう良いでしょ」
母さんの言葉を反復しながら、そういうことか、と納得する。
母さんはただ、俺を切り離すタイミングを見計らっていただけだったのだ。
一人息子だからとか、家族だからとか、そんなのはどこにもなかった。なんだかんだ言いつつもここまで育ててくれたのは、単純に世間体を気にしてのものでしかなかったんだ。
母さんの邪魔にならないようにしていたつもりだったけれど、もう手遅れだったらしい。
全部、裏目に出ていた。
音を立てないように生活するのも、掃除や洗濯をこなすことも、ご飯を作ることも、やればやるほど、母さんが俺を切る捨てられる理由になっていいた。なんて滑稽なのだろう。
一人になるのは、嫌だ。
一人は怖い。
この世界から居場所が消えたような気持ちになる。
そうならない為に、今までこうして頑張ってきたのに。
どんなときでも、笑顔でいたのに。
「俺は、どうすれば良かったの……?」
怖くて、母さんの顔を見ることができない。俺の目に映るのは、赤色のジュースだけだ。
母さんは、俺の問いかけに答えてくれない。黙ったまま。
その沈黙の意味を考えるのが怖くて、俺は再びグラスを手に取った。母さんも、今度は止めようとしない。
俺は気分を落ち着ける為に、ジュースを飲んだ。ほとんど一気飲みだった。アセロラ味だと思って飲んだそれは、甘いような、苦いような、酸っぱいような、なんとも奇妙な味がした。いや、単に今の俺の味覚が正常ではないだけかもしれない。
「椎良。こっちを見なさい」
母さんが、俺の名前を呼ぶ。反射的に、俺は顔を上げた。
「そう、良い子ね。そのまま、あたしの目を見て」
母さんの目には、俺が映っていた。
なんだろう、すごく、眠い。強烈な眠気が、まぶたを閉じさせようとする。
だけど、それは駄目だ。
俺は母さんに、目を見るように言われている。
世界がぐらつく。
ここで目を閉じるわけにはいかない。
ぐらぐら。くらくら。
全神経をまぶたに集中させて、目をこじ開ける。
なんとも形容しがたい笑顔を浮かべた母さんが、俺の目を見て、言った。
「――――――――」
母さんが俺に言葉を投げかけてくれている。
それは俺にとって、とても嬉しい言葉であるに違いない。
「――――――――」
母さんが俺になにを要求しているのか。
はっきりと、しっかりと、くっきりと聞き取ろうとする。
「――――――――」
けれど、それを頭の中で変換できない。
母さんの言うことだから、正しいに決まっている。
だって親は、子供の手本なんだから。
母さんの声が、頭の中で反響する。
身体がふわふわする。
なんだか俺の身体じゃないみたいだ。
まるで夢の中にいる気分だった。
冬の夜、刺すように冷たい空気も、今はとても気持ちが良い。
母さんの声が、頭の中でずっと聞こえているような感覚。
母さんの声を聞くのは久しぶりで、なんだか嬉しくなった。
もうすぐ切り捨てられるのに。
俺は一人になってしまうのに。
どうしてだろう、今はそんなの、どうでも良く思えた。
だって、今は幸せだ。
かつてないほどの解放感が、俺の心を満たす。
こんな幸せな気持ちになったのは初めてで、俺は声を上げて笑った。
幸せだ。
楽しい。
ずっと望んでいたものが、今日、ようやく手に入る。
そんな気分だった。
今日はなんて良い夢をみているのだろう。
こんな夢なら、永遠にみていたい。
夢の中なら、母さんに邪魔者扱いされることもない。
八つ当たりに殴られたり蹴られたりすることもない。
家の中で息苦しさを感じることもない。
もう孤独感に苛まれることもなくなる。
幸せだね。
しあわせだね。
シアワセダネ。
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