5.古代椎良
母さんは再婚すると相手の家か新居に引っ越し、離婚が決まると、そこから遠くの土地へと引っ越す。本当は俺なんて施設にでも入れてしまいたかったのだろうけれど、世間体を気にしてか、これまで五回の引っ越しに、俺は連れられてきていた。
五回もの引っ越しで様々な土地を見てきたものだが、ひとつ共通することがある。
それは引っ越し先の家賃が、どこも馬鹿みたいに高いということだ。
母さんの再婚相手は、狙っているのか偶然なのか、決まってお金に余裕のある人で、新居は自然と豪華な場所となる。しかし離婚して、俺と母さんの二人で住む場所もまた、似たり寄ったりの豪華さなのだ。
しかしこれは、母さん自身に有り余る資産があることを意味しているのではない。パートとして働いてはいるから収入はあるが、それもすぐに、自身の身だしなみの為に使い果たしている。母さんの収入から考えれば生活保護を受けるべきだし、俺だって悠長に私立高校へ通っている場合ではない。俺達二人が暮らしていくには、それ相応の慎ましやかな生活が求められるはずなのだが、そこで登場するのが母さんの両親――俺から見て、おじいちゃんとおばあちゃんに当たる人達だ。
彼らは、自分の娘をとにかく猫っ可愛がりしている。三人兄妹の末っ子で、唯一の女の子であった母さんは、それはそれは甘やかされて育てられたらしい。そしてそれは、今もなお継続中だ。
つまるところ、俺達の住む場所の家賃を支払ってくれているのは彼らなのだ。それに加えて、手厚い資金援助までしてくれている。二人の支援があるからこそ、今の古代家の生計は成り立っているのだ。
だから本来、俺が毎日のようにバイトに精を出す意味はない。ギターとかブランドものの鞄とか、そういう高い買い物をしたいわけではない。購買欲は、きっと人より少ないほうだろう。なにより、一ヶ月分の生活費として、母さんからは高校生がもらうお小遣いの平均以上の額を与えられている。
それでも俺がバイトを続ける理由は明白で。
家に居たくない。
ただそれだけ。
それに、俺が家に居ないほうが母さんの機嫌も良い。
「――こんばんは、古代椎良君」
学校を出て、大通りを通って西へ向かい、橋を渡って、そのすぐ近く。最寄駅から徒歩十分、黒崎高校までは徒歩二十分の川沿いに、現在住んでいるマンションがある。
近くのコンビニで買った夕飯を手に帰って来た俺に、そんな出迎えの挨拶をしたのは、見知らぬ男だった。
エントランスホール前に立っている男は、深く帽子を被っている所為で顔がよく見えない。俺よりも身長が低いことも手伝って、見えるのは、薄く笑みを浮かべた口元だけ。
見た感じは、普通に仕事帰りのサラリーマン。
高級そうな革靴にスーツ、コート、鞄。全身を真っ黒な高級品で包み込むという服装から、大手の会社に勤めているだろうことは明瞭だ。まだ若そうなのに、よほど上の役職に就いているのだろうか――なんて、呑気な感想を抱きつつ、警戒心を強める。
俺を名指しで挨拶をしてきたこの男を、俺は知らない。少なくとも、近所の人ではないはずだ。近所の人には、ここに引っ越してきたときに一通り挨拶を済ませている。母子家庭ということもあって、なにかと世話を焼いてくれる奥様方も多い。しかし、その家族ということでもなさそうだ。
ここへ越してきて、半年とちょっと。バイトで鍛え上げられた対人記憶力を以てしても、この男が誰なのかが判明しない。様々な可能性に考えを巡らし、ひとつの可能性に辿り着くまでに、やや時間を要してしまった。
「もしかして、小井川さん……ですか?」
数ヶ月前から母さんとお付き合いを始めた男の人の名前が、そんな感じの名前だったような気がする。
俺は小井川さんとはまだ会ったことがないから、顔も声も知らない。母さんが電話口に「小井川さん」と連呼しているのを、ぼんやりと耳にしていただけだ。
恐る恐る出した俺の答えに、男は少しだけ笑みを深めて、
「ああ、そうだよ」
と言った。
なるほど、この人が例の「小井川さん」なのか。
帽子の所為で正確にはわからないけれど、小井川さんは二十代後半か三十代前半くらいであるようだ。小井川さんとの電話口で母さんはいつも敬語だったから、漠然と年上の人だろうと思っていたのだけれど。どうやら今回の相手は年下だったらしい。
「あー、ええと。これから母に会いに行くところですか?」
どうしてマンション前に突っ立っていたのかと不思議に思っていたが、もしかしたら、マンションの中に入ろうとしたところで俺の姿を認め、待っていたのかもしれない。それが俺への牽制なのか、単純な挨拶なのかは考えないようにする。
ともあれ、小井川さんが古代家へと向かうのであれば、俺は母さんにとっての邪魔者になる。それだけは間違いない。であれば、このコンビニ弁当はどこか適当な公園で食べて、その後は駅前のファーストフード店にでも入って、例の課題の山に手をつけようか。
と、いつものように家から離れる方向でこれからの算段を立てつつ、俺は小井川さんにそう質問したのだった。
「君のお母さんには、もう会ってきた」
しかし小井川さんは、ゆったりとした口調で俺の予想を否定する。
「ただ、君がこっちに来るのが見えたから、少し待っていたんだ。古代彩未亜さんの息子が一体どんな人物なのか、一目見ておこうと思ってね」
「はあ……」
つまり、母さんとは結婚を前提にお付き合いをしていて、近いうち、俺ともひとつ屋根の下で暮らすことになるから、まだ見ぬ一人息子とやらが一体どんな奴なのかを確認しておきたかった。
そういうことだろうか。
小井川さんは、俺を上から下までじっとりと観察すると、ふうん、と頷いた。
「じゃあ、古代椎良君。僕は帰るけれど――」
小井川さんの口元が、にぃっと、歪む。
ように、見えた。
「――お母さんの言うことは、きちんと聞くんだよ」
「……?」
「ばいばい」
疑問符を浮かべる俺をよそに、小井川さんはそう言って手を振り、さっさと歩いて行ってしまった。全身真っ黒の小井川さんの姿は闇夜に紛れ、あっという間に見えなくなる。
なんだか現実味のない、奇妙な時間だった。
母さんはあんな人のどこが良いと思ってるんだろう。
「……ま、いっか」
どうでも良いや。
俺が考えても、意味のない話だ。母さんの再婚について、口出ししようとは思わない。こうして育ててもらっているだけでも、充分過ぎるほどなのだから。
気を改め、マンションへと入る。小井川さんは今しがた帰っていったわけだし、俺が家に居ても、邪険にこそされ、邪魔者扱いはされないだろう。
エントランスに設置されているパネルに決められた番号を入力して、解錠。エレベーターに乗り込んで十四階行きのボタンを押すと、エレベーターは一気に上昇していく。しかし反面、俺の気分は、どんどんと下降していくのだった。




