2.古代椎良
『イカ多めの特上盛り合わせ』。
あの呪文を、ただ言葉として終わらせるつもりのなかった俺は、あれ以来、できる限りの範囲で墨子さんを探していた。あんまり動き回ると傷が開いてしまうから、いつもより行動範囲が狭まっていたことは確かだが、それでも奇妙なくらい、墨子さんの行方は糸口さえ掴めずにいたのである。
だというのに、こうも呆気なく本人が来訪したというのは、不意打ちを通り越してただのデッドボールでしかなく、俺はさぞ素っ頓狂な声を上げたことだろう。
『覚えているのなら、中に入れてくれるかしら。貴方にいくつか訊きたいことがあるの』
「へ? あ、はい」
混乱から抜け出せないまま、墨子さんの言われるがままにロックを解除する。
そうして三分と経たないうちに、今度は玄関前のインターホンが鳴り。
恐る恐る開けると、そこには確かに墨子さんが立っていた。
あの日の夜と同じ、白いニット帽にニットのセーター、下は黒のスキニーという格好の墨子さんだったが、いくつか違うところもあった。
ひとつは、その左腕。あの夜、派手に折られた左腕に、今はギプスがはめられている。
そしてもうひとつは、瞳の色。記憶違いでなければ、墨子さんはあの夜、透き通るような青い瞳をしていたと思ったのだが。この日はそれを微塵にも感じさせない琥珀色だった。
「改めて、久しぶりね」
ドアを開けるなり、墨子さんはまるでここが我が家だと言わんばかりにさっさと靴を脱いで家に上がり、そのままリビングのL字型ソファー、その広いほうに腰かけた。
「……貴方、本当にここで暴れ回ったの?」
リビングを見回していた墨子さんは、不思議そうに言った。
もう見慣れてしまっていたが、言われてみれば確かに、古代家のリビングは、あれから一ヶ月も経ってないにしては片づき過ぎていた。しかしそれは、整然としているというよりは凄然としていると言ったほうが正しいのだろう。
「もうすぐここを引き払うことになったので、今は最低限のものしか置いてないんですよ」
ほとんどの調度品は母さん達の新居へ移動済で、現在の古代家のリビングにはソファーとテーブルくらいしか置かれていない。いささかさっぱりし過ぎのようにも思えたが、奇妙なことに、俺は今のほうが落ち着くのである。
「引っ越すの?」
「はい。ここは今月いっぱいまでで、来月からはまた別のところに住む予定です」
台所でコーヒーを淹れながら、俺は話す。
「母さんが、結婚を前提にお付き合いしてる人と、とりあえず同棲するところから始めるんですよ」
「貴方はどうするのよ」
台所からでは墨子さんの表情は見えないが、こころなしか遠慮しがちな質問に聞こえた。
どうするのか。
母さんに二度も殺されかけて、それからの話。
「俺は――」
結局、家族なんてのは腐れ縁なのだろうと思う。あんなことがあった後も、俺と母さんは親子のまま。家族という繋がりは切れもせず消えもせず、今もちゃっかり継続中だ。
俺があの一件についてどれだけ肯定的に考えたところで、そんなのはただの遠回りでしかない。現実を認めたくなくて遠回りした結果、今回みたいなことになってしまったのだ。それなら今答えを出したって同じことだろう。どうせ行き着く先は同じなのだろうから。
「俺は、俺の意思で、母さんを許さないって決めました」
これまでずっと、誰からも嫌われないように、適当に笑顔で返して凌いできた。でも裏を返せば、それは誰からも好かれない生きかただったのかもしれない。誰からも嫌われないということは、相手に自分を一切伝えないということだ。
笑顔で隠して、それでなにもかも上手くいっているような気になっていたけど、今回の件で、俺の考えなど、母さんには一切伝わっていなかったのだと痛感した。
意思や感情を伝えるには、へらへら笑ってばかりじゃ駄目なんだ。
「今度の引っ越し、俺は母さんについていかないことにしたんです。でもそれは、母さんにそう言われたからとか、結婚目前の二人の邪魔をしないようにとか、そういうんじゃなくて。単に俺が母さんを許せないと思ったし、当分の間は母さんと顔も合わせたくないからです。だから、生まれて初めてわがまま言っちゃいました」
他人との間に境界線を作って、距離を作るような生きかたは、もうしない。
人は急には変われないけど、変わろうと意識して動くことくらいはできるのだ。
惨めったらしくても、馬鹿らしく見えても、俺は俺としてしか生きていけない。
それならもう外聞なんて気にせず、俺は俺らしく生きてやろうじゃないか。
「だから、墨子さん」
二人分のコーヒーを入れたコップをテーブルに置いてから、俺は床に正座し、頭を下げた。
「この間は助けて頂いて、本当にありがとうございました」
あの日からずっと言いたかったお礼の言葉を、ようやく本人に伝えることができた。
「……別に。私は私のしたいようにしただけよ」
頭を上げなさい、と言われて上げると、照れくさいのか、少しだけ墨子さんの頬が紅潮しているようにも見えた。が、敢えてそれを指摘しようとは思わない。墨子さんには親子共々助けてもらった恩があるが、三角刀を肩にぶっ刺されたこともまた、変えようのない事実なのである。俺は『闇子さん』の話を鵜呑みにしないまでも、まだ半分は信じているのだ。
「今日は、貴方にいくつか訊きたいことがあって来たの」
すごすごとソファーに座った俺を見て、墨子さんは話を切り出した。
「貴方の母親のほうにも話を聞きには行ったのだけれど、どうにも記憶が曖昧なようでね。貴方はあの日のこと、どれくらい覚えているのかしら?」
コーヒーに角砂糖一個とたっぷりのミルクを入れて、混ぜながら。
淡々と。平然と。
墨子さんは本題に入った。
訊かれたのは、主に魔法の薬を飲んでからの主観的状態や記憶について。
それらの質問に対し、俺は正直に答えた。墨子さんは命の恩人なのだ、それくらいは当然と言うものだろう。墨子さんが来てくれなければ、俺はあのとき、生きることを諦めて死んでいた。だから、俺にできることがあるのなら、なんでもするつもりだ。
「……そう。なるほどね」
一通り質問をし終えて納得したのか、墨子さんはゆっくりとコーヒーを一口含む。
「どうやら私の立てた仮説で正解のようね。古代椎良、貴方は相当な頑固者だわ。いえ、卑屈、或いは意固地と言えば良いのかしら」
「本人目の前にして、堂々と悪口言わないでくださいよ!」
いくら命の恩人であっても、突っ込まずにはいられなかった。
「いいえ、むしろ褒めているのよ」
しかし俺の反論などどこ吹く風という感じで、墨子さんは続ける。
「そのねじ曲がった根性があったからこそ、貴方は例の薬による暗示にかからなかったのだと思うわ。結果として、母親だって一時は叶え人化したものの、なんの罪も犯さずに元に戻せたし、貴方自身も死なずに済んだんじゃない」
それでも褒められたのか貶されているのかの境界線上な気がしてならない。しかしまあ、墨子さんが褒めてるというのなら、素直に褒め言葉として受け取っておくべきか?
「でも俺、完全に暗示を振り切れてたってわけでもないと思うんです」
慎重に記憶の糸を辿りながら、話す。
「母さんに薬を飲まされてすぐに、うちのリビングと学校の用具室を壊しまくったし、無意識に自殺する行動が増えていたし、それに――」
なにより不可解で仕方なかったのは、十二月二十日の誕生日会のときだ。
あの日、数年振りに誕生日を祝ってもらえて舞い上がっていたのは確かだ。だけどそれだけで、俺がクラスメイトの前で涙を見せるだなんていうのは、考えられない。他人の前で感情的にならないよう気をつけていた俺が、そんなミスをするのは有り得ないのだ。
「どうかしたの?」
途中で言葉の切れた俺に、墨子さんは先を促した。
「ええと、つまり、暗示には微妙にかかっていた上に、情緒不安定になりまくっていたと言いますか。頭の中がぐちゃぐちゃになってて、俺の感情とは真逆のことをしていたと言いますか。つまり、墨子さんに褒められる要素はないと思うんですよ」
「それは違うわ」
しばし思案顔だった墨子さんは、きっぱりと俺の推測を否定した。
「あの薬を投与された人間は、ワクチンを打たない限り止まらないわ。だからといって半端な暗示だと、精神のほうが先に崩壊してしまう。けれど貴方は『暴走する』という新しい反応を見せた。貴方の場合、母親からの暗示以上に、自分で自分の心を縛っていたから、情緒不安定程度で済んだのだと思うわ。誰の言葉も聞いてるようで聞いていないからこそ、貴方は暗示を振り切って暴走してしまえた。頑固で卑屈で意固地な性格に救われたって言うのは、そういうことよ」
コーヒーを一口飲んで、むしろ、と墨子さんは続ける。
「あの薬を飲まされて、一時暴走しただけで、あとは情緒不安定程度で済むほうが驚きよ。あれは理性を吹き飛ばしてしまう薬なのよ? 怒りやすくなったり、泣きやすくなったり、普段は我慢しているものが表に出やすくなるのは当たり前。それについては、叶え人化した人達によく見られる現象だわ」
「えっと……?」
「つまり、貴方がクラスメイトの前で嬉し泣きしたのは、紛れもなく貴方自身の感情ってこと」
「なっ、どこでその情報を?!」
「『おさげさん』から」
「え?」
どうしてここで、一時期だけ校内で流行った怪談が出てくるんだろう。都市伝説と怪談って、そんなに密着した関係性でもあるのだろうか。
「でも……そっか」
普段は我慢しているもの。
抑え込まれているもの。
あの日の俺は、本当に泣くほど嬉しかったのか。
「なにをにやけてるのか知らないけれど、話の続き、しても良いかしら」
その声に、はっと我に返る。
「ど、どうぞ!」
顔を横にぶんぶんと振って、表情をいつものものに戻す。
今、にやけてたのか?
「それじゃあ、これが最後の質問よ」
言いながら、墨子さんは腰から下げていたシザーバッグから一枚の写真を取り出し、俺に手渡した。
そこに映っていたのは、三十代ほどの男の人。彼を正面から映している写真がどう見ても履歴書用としか思えないこと以外は、至って普通のものだ。
「この男に見覚えはないかしら」
「ええと……」
改めて写真と睨めっこしながら、記憶の海へと旅に出る。
どこにでも居そうな髪型に、人畜無害な垂れ目がちの目元。なんだか見覚えのあるような気もするし、無い気もする。
「……私より背の低い男なんだけれど」
「……?」
背の低い男、というワードが引っ掛かった。
俺の目測では、墨子さんの身長は一六〇センチ台後半強といったところだろう。その墨子さんが「私より背の低い」と断言できるくらいの身長と考えると、答えは案外すぐに出た。
「あ。偽小井川さんだ」
写真に映っている男は、去る十二月十日の夕方、マンションのエントランスホールで会った奴だった。
大人の癖に背が低いなあと思ったのと、もうひとつ。
――お母さんの言うことは、きちんと聞くんだよ。
ほんの二言三言しか話していないけれど、この言葉が頭に残っていた。
「俺、この人知ってます。少しだけですけど、話もしました」
「本当に?」
目を見開き問い質す墨子さんに若干身を竦ませながら、首を数回縦に降った。
「それじゃあ、貴方が覚えている限りで構わないわ。その日の彼の服装とか、会話の内容、なんでも良いから、教えて頂戴」
言われるがまま、俺は覚えている限りで洗いざらいに話した。別段、隠しだてするような義理もない。墨子さんにどういう考えがあってこういう質問をされているのかはわからないが、それで墨子さんの為になるのなら構わなかった。
だが、俺の話を聞き終えると、墨子さんは人を殺しかねないほどに目をぎらつかせて黙り込んでしまったのである。
「……墨子さん、この人、誰なんですか?」
沈黙に耐え切れず、俺は敢えて直球な質問を投げかけることにした。
あんまり本題からずれてしまうのは良くないだろうし、そもそも、墨子さんとの雑談なんて話題が迷子過ぎてできやしない。俺にとってはとにかく沈黙が続かなければ良かったのだから、話題のセレクトはそう間違ってはいなかったはずだ。
「――……。深津桜介」
俺の質問に少し顔をしかめたのち、墨子さんは続ける。
「それがこの男の名前よ。もっとも、それだって偽名かもわからないけれどね」
「……」
「なによ、不思議そうな顔して。貴方が訊いてきたんでしょう?」
「そうなんですけど、その、答えてくれるとは思ってなくて」
正直、適当にはぐらかされると思っていた。
墨子さんも心当たりがあったのか、ばつの悪そうな顔を浮かべながら、貴方には必要な情報だと思うから答えたのよ、と言う。
「この男が、魔法の薬を配り歩いていると言われている『叶え人』の元凶的存在よ。今回の件について言えば、貴方の母親が深津桜介から薬を受け取ったということになるわね」
マンションのエントランスで会ったあの日が、恐らくそうだったのだろう。
十二月十日の夕方。
――お母さんの言うことは、きちんと聞くんだよ。
あれはそういう意味だったんだ。
この男はこれから先、俺の身にどういうことが起きるのか知った上で、人畜無害な面構えと口調で、そんなことを言ったのだ。
「気をつけなさい」
得体の知れない気持ち悪さに苛まれていた俺に、墨子さんは言う。
琥珀色の瞳で、真っ直ぐに俺を射抜いて。
「今後、この男が貴方に接触を図ってくる可能性もあるわ。あの薬に対して想定外の行動を取った貴方を、研究対象、或いは実験体として、利用するかもしれない」
だから、古代椎良。
墨子さんは深津桜介の映った写真を右手で指差す。
「その男にもし遭遇してしまうようであれば、すぐに逃げなさい。なんなら、逃走がてら、ぶん殴っても構わないわ。私が許可する」
「それは……いや、はい、わかりました」
出会い頭に他人をぶん殴ったら、それはそれで警察沙汰だ。しかし考えてみれば、俺がこの男を殴らない理由はない気もした。だから力強く頷いた。
「質問は以上よ。今言ったことにだけ気をつけて、あとはいつも通りに過ごせば良いわ」
ゆったりとした調子でコーヒーを飲み終えると、墨子さんはソファーから腰を上げた。その動作だけでもやけに優雅に見えたのは、果たして気の所為だろうか。
「ご馳走さま。それじゃあ私は失礼するわ。繰り返しになるけど、この男だけは気をつけなさいね。それ以外は、すっぱり忘れてしまって構わないから」
そう言って、来た時同様にさっさと玄関へ向かう。
このまま見送ってしまえば、二度と墨子さんと会うことはなくなるだろう。
少なくとも、墨子さんはそのつもりだ。
それで良いのか?
本当に?
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