1.古代椎良
「ふーっ。よし、引っ越し完了!」
一月二十五日。
昨夜から降り積もった雪の所為で、決して引っ越し日和とは言えない本日この日。
俺は頬を伝う汗をタオルで拭きながら息をついた。
この八畳1Kのこの部屋が、今日から俺の家になる。
「思ったより早く終わったね。他に、なにかすることはあるかな?」
解体した段ボールをまとめ終えて俺に声をかけてきたのは、今日からお隣さんとなる母川左門さん。すらりとした長身で、眼鏡をかけたエリート社員のイケメンさんである。
「あとは小物とかだけなので大丈夫です。休みの日なのに手伝ってもらっちゃって、本当にありがとうございました」
「構わないよ、僕のほうから手伝いたいって申し出たんだし。会社じゃデスクワークがメインで身体が鈍っちゃいそうだったから、今日は良い運動になったよ」
「おかげさまで助かりました」
今回の引っ越しにあたり、家具家電は前もって注文して、この部屋まで配達してもらうように手配していた。そこまでは良かったのだが、配達を終えると、業者の人達はさっさと帰ってしまったのである。予想外の事態に、冷蔵庫とか洗濯機とかをどう設置するのかがわからなくて途方に暮れていたとき、ひょっこりと助けに来てくれたのが左門さんだったのだ。肩の怪我がまだ完治していない俺にとって、左門さんの登場は降って湧いた幸運だったと言えよう。
そうでなくとも、引っ越しの段取りが悪かった。単純な引っ越し回数で言えば、俺は他の人より多いだろう。けれど今までは全て母さん主導の下行われていて、俺はなにも考えず、ただそれについていっていただけなのだと思い知らされた。
「左門さん、ジュース飲みます? さっき買ったのをベランダの雪に埋めといたんで、良い感じに冷えてると思いますよ」
話しながら、ベランダに出て雪の中からジュースを掘り出す。
新しく買った小振りの冷蔵庫は、まだ電源を入れたばかりで満足に冷やせはしない。小一時間前に用意していたのだが、さすがに雪がたくさん降り積もる土地なだけあって、ほど良く冷えていた。
「無糖コーヒーとりんご一〇〇%、どっちにします?」
座って眼鏡を拭いていた左門さんは、眼鏡をかけ直して俺の手元を見たのち、
「じゃあ、コーヒーをもらおうかな」
と言いながらに、りんごジュースを手に取った。
そしてなんの疑問も抱かず、飲む。
「やっぱり冬でも、冷たいものは美味しいねえ」
あまつさえ、笑顔でそんな感想さえ言ってみせる左門さん。……その眼鏡、度は視力に合ったものなんですよね?
そう訊きたくなったが、親切な隣人に初日から失礼かと思って口を噤み、俺は部屋に戻って、作業中は外していたブレスレットを右手につけ直した。
このブレスレットは、先月の誕生日にクラスのみんなから貰ったプレゼントで、青い石を基調としたこれを、俺は一目で気に入った。久しぶりに貰った誕生日プレゼントということもあり、大切に大切を重ねているのだ。
「そういえば椎良君って、どこの生徒って言ってたっけ。黒崎?」
引き続き、りんごジュースを飲みながらに左門さんはそんな質問をしてきた。
大方、部屋の片隅に掛けられたふたつの制服を見て浮かんだ質問だろう。
「あー、ええと」
コーヒーを開けつつ、言い淀む。どう説明したものか。
引っ越し作業を手伝ってもらっている折、俺の抱える事情については、おおよそ説明済である。
母さんが結婚を前提に同棲を始めるんだけれど、そこに俺が居ては邪魔だろうと思って気を遣い、母さん達とは別々に暮らすことになった――とか、そんな感じ。
いろいろと誤魔化しつつの説明で、全て真実とは言えないのだが仕方ない。そうでなきゃ、高校生がこんな時期から一人暮らしを始めることに世間が立たないからだ。
遡ること、約一ヶ月。
十二月二十日、夜。
あれから。
墨子さんの仲間であり一番弟子でコードネームはタコだと名乗る、俺と同じ年くらいなのに胡散臭さマックスの女子に救急車を呼んでもらったりして、あの場はどうにか収拾がついたのだった。
通報を受けてやってきた救急隊の人達がこうなった経緯を説明して欲しいというので、俺はタコさんから「こう説明すれば、大人は納得するはずだ」と得意気に語った通りに話した。
曰く、親子喧嘩の末に俺が家を飛び出し、それを心配した母さんが俺を追いかけてきたところで親子共々暴漢に遭遇した――である。
これなら確かに、叶え人だなんだという、ややこしいくも嘘くさい真実を話さずに済む。救急隊の人達も、少しだけ怪訝そうな顔をしていたが、腕に引っ掻き傷をこさえた母さんと、殴られ過ぎて顔が腫れあがり、左肩から派手に出血している俺を見て納得したようだった。
ちなみに、左腕を派手に折られた墨子さんはというと。
救急車が来る前に意識を取り戻し、タコさんに肩を貸してもらって早々に退散した。辺りに散らばっていた三角刀をタコさんに回収させてから撤収するまで、一切の無駄がなくて。こういう刃傷沙汰な展開に慣れているのかなあと、ぼんやり思ったのを覚えている。
俺達は一緒に救急車で病院へ搬送され、母さんはそのまま入院。
一方で俺は四針も縫ったのち、時間が時間だという理由で一泊だけ入院することとなった。
そうして明くる日、二月二十一日。
土曜日で学校が休みだったこともあり、俺はゆっくり身支度を整えて退院した。
母さんと面と向かって話をしたのは、年明けの一月六日のこと。
年末にはとっくに退院していたはずの母さんは、どうやらその日まで、小井川さんのところでお世話になっていたらしい。この日も、母さんは小井川さんと一緒に古代家へやって来た。
俺としても、あんなことがあったばかりで母さんと二人きりは精神的にきついものがあったから、小井川さんも居たことには素直に感謝した。
「ごめんなさい」
第一声、謝罪この言葉を口にしたのは母さんだった。
俯き気味で、決して俺と目を合わせようとはしなかったが、それでも母さんは俺に頭を下げた。初めての体験に、俺は必要以上に目を見開いたのを覚えている。
「あんな風に言ったこととか、その辺――今回はあたしが悪かった。そう思ってる」
「……うん」
今回は。
その言葉に少し突っかかるものを感じたが、しかしその点について、母さんはなにも間違ったことは言ってはいない。だって母さんだけが悪いわけではないのだ。俺だって、純度一〇〇%の被害者とは言えない。
なんとなくの生きているふりで、目を逸らし続けた結果がこれだった。
父さんが死んでしまってから、或いは、もっと前からでも、俺が目を背けなければ、なにか活路が見えていたのかもしれない。家族というものに夢を見過ぎて、同時にそれを言い訳にしていた俺には相応の罰だろう。
これはあくまで俺の自論でしかないのだけれど。人は解決不可能な害悪を目の前にしたとき、「逃げる」か「消す」かの極論二択しかないのだと思う。
だから母さんは、俺という害悪からいろんな方法で逃げ続けてきたのだろう。そうやってどうにか「古代家」として保っていたバランスは、しかし、魔法の薬なんてものが登場してしまったが故に、いとも容易く崩れ去った。魔法の薬が、母さんの中で「逃げる」と「消す」のスイッチを切り替えてしまった。それだけだ。そう思いたい。
「……ごめん。不躾な質問だったかな」
左門さんは、気まずそうに眼鏡の位置を直しながら、そう言った。
「へ? なにがですか?」
「学校のことだよ。椎良君、急に黙っちゃったからさ……。ごめんね、よく空気が読めないって言われるんだ」
「あ、違うんです。ちょっと考えごとしちゃってただけで、そういうんじゃないんです」
右手を顔の前でぱたぱたと振って否定する。
「学校は、三月までは黒崎です。でも四月からは柊学園に転校するつもりでして」
その辺は、家庭の事情ってやつです。
そう言って、詳しい経緯を説明するのが面倒ではぐらかしたが、しかし左門さんは特に気にしなかったらしい。
「ふうん……。いやまあ、なんと言うか、大変なんだね」
これでこの話題は一区切りだとばかりにそう言って、左門さんはぐいっとジュースを飲み干した。
これからについて小井川さんは、母さんとの同棲先について来て欲しいと言ってくれた。場所は確か、水城市内の二田里地区というところで、そこに新しく部屋を借りたとか。
一応断っておくと、どうやら母さんは小井川さんに「親子喧嘩をした」程度にしか事情を話していないらしい。そうでなければ、いくら魔法の薬の所為とは言え、息子を本気で殺そうとした母親と一緒に住もうなんて提案、軽々しくしてくるわけがないのだが。
そんな感じで、小井川さんには申し訳ない限りだが、俺はその提案を最後まで拒否し続けた。
あの日のできごとは、親子としての許容の範囲を確実に越えるものだった。
無関心でなく嫌悪。
無関係でなく拒絶。
嫌なことは「嫌だ」と口にする。
要は、遅れてやってきた反抗期だ。
善意を真っ向から蹴った俺に対し、しかし小井川さんは嫌な顔ひとつせずに「そうか」と頷いた。
さらには、
「おれはいつ来てくれても構わないと思っている。いつか家族になるのだろうから」
なんて頼もしいことを言って、俺の生活費を出すと約束してくれた。
家族になる準備と思えばどうということはない、なんて格好良いことを言っていたが、私立高校の学費なんて、そう簡単に出せるものではない。母さんとの新生活に向けた準備や結婚資金だけでも金額が嵩むというのに、さらに二人とは別に部屋を借りようとする俺がいるのだから、初期費用が半端なものじゃない。家族になる準備とは言っても限度はある。たとえ母さんの実家からの援助を合わせても、だ。
そんなわけで、俺は私立の黒崎高校から、公立の柊学園高校へと転校することとなったのだった。その辺の妥協は、まあ、仕方ない。転校自体は慣れているし。
ただ、今度の転校は今までのそれとは全く違うものになる。
いいや、違うものにしようと、俺が決めた。
この年末年始、何年か振りに家にずっと一人で居て、考えていた。
中学までは適当に外をぶらついて時間を潰し、高校に入ってからはバイトに明け暮れていて、家に居る時間はないに等しかったから、家に居ることに対する違和感が尋常じゃなかった。
一人で過ごす時間。
そこで考えていたのは、これからのこと。
父さんと母さんの為にはなにをすべきかとか、そういうのじゃなくて。
たとえば、自然とこぼれるような笑顔。
たとえば、友達の作りかた。
そういう風に、人との距離を少しずつでも詰めてみたいと思った。
一度諦めた人との関わりを、いざまた持ちたいと思ってみると、これがなかなか難しい。今まで適当に流していたから、なにをどうしたら良いのか、全くわからないのだ。だけど、これから仮面を被らずとも生きていけるようになる為には、今の俺でもできそうなことからやっていくほかない。
〈親友〉とか〈恋人〉のような〈特別な誰か〉を作るのは、まだ怖い。だけど、なにもしなければなにも変わらないのも確かなのだ。
他人から明示された答えが、ただひとつの絶対的な正解であるとは思わない。俺なりに考え選んだ答えを、ときには反省することがあっても、後悔のないよう進んで行きたい。
父さんと母さんの所為にして、全てを蔑ろにするのは、もうやめる。
自分でなにも考えず、ただただ愚直に言うことを聞く〈良い子〉も、だからもう終わり。
ひとつ確かな決意を以て、これからの高校生活を送るつもりだ。
決意表明のつもりで、既に実行済のものもある。
それは。
「その髪」
言って、左門さんは俺を指差した。
「髪? 髪がどうかしました?」
左門さんの発言の意図が読めず、俺は首を傾げる他ない。
どうやら左門さんは、言葉少なにさらっと指摘するつもりだったようだが、意図を測りかねた俺に、眉をしかめる。
「いや、だから、その髪だよ。髪の毛の色のこと」
「ああ、このメッシュですか」
そこまで言われて、ようやく左門さんの言わんとするところを理解した。
「黒崎は生徒の服装についてはかなり自由がきくらしいから良いかもだけど、柊学園に転校する予定なら、その前に戻したほうが良いんじゃないかな。柊学園ってそういうのはかなり厳しいところなんだよ。女子のスカート丈は勿論、男子も学ランの丈とか頭髪チェックもするらしいんだから」
「えへへ、綺麗に染まってるでしょ」
言いながら、先日一部分だけ染めたばかりの髪に触れる。
そう、これこそが俺の決意表明の証なのだ。
――一月六日の家族会議の後。
小井川さんと一緒に母さんも帰ってから、まるでそのタイミングを見計らったかのようにインターホンが鳴った。鍵を持っている母さんなわけがないし、となると小井川さんが忘れ物でもしたのだろうかと考えつつ、インターホンのモニターを確認する。
すると。
『――こんばんは。私のこと、覚えているかしら』
「なっ……、や、墨子さん?!」
そこに映し出されていたのは、紛うことなく墨子さん本人だった。
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