3.古代椎良
――死ねば良いんだよ。あんたが死ねば、あたしもあんたも、幸せになれる。
一週間前の夜、俺は母さんに面と向かってそう言われた。
母さんに「死ね」と言われたのに、そのときの俺は、なんだか夢をみているみたいにふわふわとしていて、とても気分が良かった。だから俺は、ふたつ返事で頷いた。
どうせ、いつかはこうなると思っていた。
父さんが死んだあの日から、母さんは俺に暴力を振るうようになった。
母さんにとって俺がお荷物になっているのは、理解していたつもりだった。俺を酷い目に遭わせることで母さんの気が晴れるのなら、怪我なんて安いものだ。そう思って、一切拒絶せずに受け入れた。
だけど、こうなってしまえば仕方ない。
ほとんど唯一の家族である母さんに「死ね」と言われてしまったんだ。それならば俺は、死ぬほかないのだろう。
――お願いだから椎良、これからは、ちゃんと良い子でいなさい。
そうだ。〈良い子〉でいる為には、母さんの言うことをきちんと聞かなきゃいけない。
だから俺は「死ね」と言われて、すぐにベランダへ足を向けた。自分でも驚くほど迷いのない足取りだったのを覚えている。
ベランダに出ると、冷たい夜風が俺を出迎えてくれた。
手すりの淵に立つと、眼下には確実に死ねるであろうコンクリートの地面が見えて。
もう母さんに邪魔者扱いされない。
殴られない。
蹴られない。
俺が死ねば、母さんは幸せになれる。
やっと楽になれる。
幸福感だけが俺の心を満たしていった。
ああ、だけど。
だけど死ぬ前に、ひとつだけやってみたいことがあったなあと思った。
それは、ひどく単純な破壊衝動。
毎日嫌な気分になって帰ってこなければならないこの家を、徹底的に壊してやりたいと思ったのだ。
居心地の悪い家。
俺の居場所がない家。
そんな家が、俺はずっと嫌いだった。
後ろに飛んでベランダに着地し、リビングに戻る。
母さんが真っ青な顔をして俺を見て「死ね」と連呼していたが、気にしない。
ぶっ壊してやろう。
全力で。
思いきり。
徹底的に。
それだけが頭の中を支配する。
まだふわふわとした気分を引き摺っている所為か、自分で自分をコントロールできない。
感情の波が衝動となって次から次に沸いてきて、止めようがなかった。
気づけば、無駄に調度品の置かれていたリビングが廃墟のような有様になっていた。
徹底的に壊された家具。割れた食器。惨憺たる惨状。
全部、俺がやった。俺が壊した。
母さんは座り込み、茫然としているだけだった。
ざまあみろ、と思った。
ああ、こんなに気分の良い瞬間がこれまでにあっただろうか。
もっと壊したい。
そうすれば、この快楽にも似た感覚をさらに味わえるような気がする。
俺は迷わず家を出た。
母さんはなにも言わなかった。
どうして母さんは俺を止めてくれなかったのだろう。
外の冷たい空気を全身で感じながら、考える。
こんなに〈悪いこと〉をしているのに、母さんは俺を怒ろうとすらしてくれない。
それがひどく腹立たしくて、思いきり地面を蹴った。
すると、コンクリートの地面が粘土のような脆さで抉れたではないか。
「あっは!」
面白くって面白くって、その場で何度かコンクリートの地面を蹴り上げた。
そういえば中学生の頃に、美術で粘土細工をやったなあ。野菜をモデルに作ったんだっけか。我ながら素晴らしい出来栄えだった。美術の先生にも褒められた気がする。あの粘土野菜は文化祭で展示された後、各自で家に持ち帰ることになった。俺はそれを母さんに見せたけれど、案の定母さんの反応は薄かった。粘土野菜は、そうして次の引っ越しのときには不要物として捨てられた。
学校の思い出は楽しいものばかりだけれど――そうなるように、必死になって学校生活を営んでいるんだけれど――それはどうしたって家へと続いていく。
学校でどれだけ嬉しいことがあったって、家ではそれを否定される。無視される。
学校と家は地続きだ。切っても切れない。切り離せない。
あれ? おかしいなあ。じゃあ学校だって、俺にとっては嫌な場所じゃないか。
どうして今まで、そんな場所に縋って生きてきたんだろう。
それなら学校もぶっ壊しちゃおう。
今まで俺を苦しめてきたもの全部を壊して、清々とした気分になってから死のう。
そうだ、遺書を用意しなくちゃ。家の事情とは一切関係ないことを自殺の理由にしよう。そうじゃないと、母さんに迷惑がかかる。
きっとこれで、母さんは俺を〈良い子〉だと認めてくれるはずだ。
学校の敷地内へは難なく侵入できた。
だが、どこもかしこも施錠されていて、校舎の中までは入れない。どうせ壊すのなら壊し甲斐があるものをと思っていたのに、中に入れないのでは意味がない。教務室とか事務室とか、学校という機関の根幹からぶっ壊したかったのに、残念だ。
仕方ないから、ふと目に着いた体育館――その裏手にある用具室に入った。前にヒロから、ここのたてつけは甘くなっているという話を聞いたことがあったが、その通りだった。
用具室で暴れ回って満足した俺は、遺書を書く為に一旦家に戻ることにした。その途中、なんだか見覚えのある男の人に「調子はどうかな?」と訊かれて「最高です」と答えたような気もするが、どうも定かではない。それよりも用具室でうっかり切ってしまった頬から流れる血のほうが不快だったし、これから死ぬつもりの俺にとっては、そんなのどうでもよかった。
家に帰ると、母さんはリビングで気絶したように眠っていた。
もう寝ちゃったの?
リビングに置いてあった時計は壊してしまったから、正確な現在時刻がわからない。いつの間に、そんなに夜も深くなっていたのだろうか。
「あーあ」
深いため息をついて、俺は自分の部屋に引っ込み、ベッドに入って寝た。
死ぬ気が失せた。
遺書を書いて、最期に母さんに一言でも良いから、褒めてもらいたかったのに。
母さんが寝てしまっているのなら意味がない。
それなら、死ぬのは明日にしよう。
その日の夜はそんなことを考えながら寝て。
翌日、目が覚めたときにはすっかり忘れてしまっていた。
自分で作り上げた惨状に驚き、あまつさえ恐怖を感じすらした。白々しいにもほどがある。
小学生の頃、生きていくのは面倒の積み重ねなんだと悟った。
中学生になって、漠然と死にたいと思うようになった。
今はただ、死んでいないというだけ。
だからせめて、父さんとの約束は守らなきゃ。
――母さんの言うことは、きちんと聞けよ。
――お前が、母さんを守ってやるんだ。
それだけが俺の存在理由だった。
母さんが幸せになれるように、精一杯努力をした。
ぶたれたって蹴られたって泣かない。誰にも言わない。
それが母さんを守るということだから。
ねえ、母さん。
この間だって、久しぶりに自転車に乗ったから、ついでにそのまま死のうと思ったんだ。本当だよ。だけど人が多くて、思うようにスピードが出せなくて、失敗しちゃっただけなんだ。
ねえ、母さん。
俺は母さんの知らないところで、一人で勝手に死ねるから。
だからさ。
「……母さんの手で俺を殺す必要なんて、ないんだよ……」
言いながら、俺は目を開けた。
一等星くらいしか見えない星空が、俺を出迎える。水城市の夜空は、暗いようで明るい。
「ってぇ……!」
起き上がろうとして、全身を駆け巡る痛みに顔を歪めた。その顔すら痛い。なんだこれ。身体中が激痛を訴えている。目を開けているはずなのに、視界がいつもの半分以下だ。そもそも、どうして気を失っていたのだったか。
記憶が不透明で混乱していた俺の耳に、
「があああああああ――!」
と、母さんの絶叫が届いた。
声のしたほうを見れば、母さんと誰かが対峙しているではないか。
あれは……そうだ、闇子さんだ。
呪文を唱えれば助けてくれる『闇子さん』。
叶え人になった人間を元に戻してくれる『闇子さん』。
仰向けに倒れたままで、俺は思い出す。
ようやく意識がはっきりしてきた。途切れてた記憶と記憶が繋がっていく。
母さんに殴られて気絶する前、俺は闇子さんに確かにこう言った。
――俺なんかより、母さんを助けてください。
そうお願いしていた。
なのに。
「なにを、してんだよ……っ」
ついさっき闇子さんは、叶え人を元に戻すワクチンを持っていると言っていた。であれば、そのワクチンを投与してしまえば解決するじゃないか。
だというのにどうして、闇子さんは母さんと殴り合いをしているのだろう。
「――っ」
気がつけば、走り出していた。
母さんにさんざ殴られた所為で、身体中が軋む。
だけど、駄目なんだ。
母さんが死んだら駄目なんだ。
そんなことをされたら、俺が死ぬ意味がなくなってしまう。
死ぬのは、俺一人で良い。
「いま、かあさんになにしたんですか」
どうにか闇子さんの左腕を掴んで、動きを止めることに成功した。
ばきん、なんて音がしたような気もする。気のせいだろう。
「似たもの親子ね、貴方達」
苦笑いと共に、闇子さんは口を開いた。
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