1.古代椎良
「ったくさあ、手間掛けさせないでよねェ。ますます殺したくなるじゃん」
寝間着に裸足でここまでやってきた母さんは、ふらふらと危なっかしい足取りで、しかし着実に俺との距離を詰めていく。
「……」
闇子さんの姿が、確認できない。
一体どこまで蹴り飛ばされてしまったのだろう。あんな人間離れした威力の蹴りを喰らって、よもや、死んでしまってはいないだろうか。
「あっは! つーかまーえたァ」
「がっ――」
母さんから視線を外した、その刹那。
躊躇いのない動きで、母さんは俺の喉元を掴んだ。
そのまま、ろくな抵抗もできずに押し倒される。
「か、かあさ――」
「ほんとに、嫌い」
嫌悪に満ちた笑顔を向け、母さんは言う。
ぎりぎりと、両手で俺の首を絞めつけながら。
「あの人に似た口元も、鼻も、喋りかたも、全部嫌い」
それは、今まで溜め込んできた泥を吐き出す作業のように感じられた。
「あんたの所為であたしは不自由で、あんたが足を引っ張るからあたしは幸せになれない。全部が全部、あんたの所為だ」
首を絞める力が、徐々に強くなる。
その泥が全て吐き出されたとき。
俺は殺されるんだろうと思った。
「でも、それも今日で終わり。言うこと聞かない上に気味の悪いあんたとも、今日でおさらば」
歯を見せて、にぃっと笑う。
母さんの笑顔を見るのは久しぶりだった。
俺が死ねば、母さんは本当に幸せになれるんだ。
そう確信した。
「――駄目だよ、母さん」
だから俺は、母さんの手を引き剥がして、言う。
努めて、笑顔で。
「母さんが俺を殺しちゃったら、母さんは幸せになれないでしょ」
母さんの手で俺を殺させては駄目だ。
そんなことをすれば、母さんが殺人犯になってしまう。
それが幸せだなんて、俺は思えない。
「だから――それが気味悪いって言ってんの!!」
俺の手を振りほどいて続けざまに、母さんは俺を殴った。
拳を握り、精一杯。
殴る。殴る。殴る。
こうして正面から母さんに殴られるのは、とても久しぶりだった。いつもは後ろから、いきなり殴られるもんな。こういうとき、どうやって痛覚をシャットダウンすれば良いのかなんてのは、もう身体に沁みついていて、どうということはない。
母さんと目が合った。これもまた久しぶり。こんな場面でなければもっと喜べたのだろうけれど、贅沢は言わないでおこう。
「あたしがあんたを殺したいの! あたしがあんたを殺すことに意味があるのっ! あんたはただ、あたしの言うことを聞いてさえいれば良いのに――どうしてあんたはいつもいつも、あたしの言うことが聞けないの?!」
なにを言っているんだ、母さんは。
俺はいつだって、母さんの言いつけを守ってきた。
今までずっと、母さんにとって〈良い子〉で居続けたじゃないか。
「あんたが勝手なことばっかりするから、あたしがあんたを殺すしかないんじゃない! これで全てが上手くいくんだから、大人しく言うこと聞きなさいっ!」
どうすれば良い?
母さんの言う通りにすれば良いのか、否か。
どちらが正解だ?
わからない。
俺にわかるはずがない。
「あたしはあたしなりに、母親らしくやってきた。なのにあんたは、いっつも気味悪い笑みばっかり浮かべて――」
母さんは続ける。
独白を。
暴力を。
「お小遣いは充分な額を渡してたし、それできちんとご飯は食べれてたでしょ?」
小学生の頃は、コンビニ弁当を。
中学生になってからは、ちょっとずつ自分で作るようになった。
もうずいぶんと、母さんの手料理を食べていない。
「学校も、その土地で一番良いところに通わせてあげた」
俺は別に、どんな学校でも構わなかった。
どうせすぐに引っ越してしまうのだから。
「ずっと不自由ない生活をさせてあげてきたじゃない。それのなにが不満で、いつも悪いことばかりするの……!」
「わ、るい……こと……?」
俺がいつ、悪いことをしただろう。
俺がいつ、母さんを困らせるようなことをしたのだろう。
考える。
答えは出ない。
いつもそうだ。
俺は。
母さんは。
母さんはいつだって――
「あんたはいつだって自分のことばっかり! あたしだって苦労してんのに……。でも、それももう終わり。今日で終わり!!」
けたけたと楽しげに笑って、母さんは俺を殴る手を止める。
「これでさよならだね、椎良。憎たらしいあんたをこの手で殺せて、あたしは今、とっても幸せだよ」
その代わり、俺の首に手をかけた。
ぐっと力が込められて、意識が加速度的に遠退いていく。
殴られっぱなしだった俺に、それに対抗できるほどの力は残されていなかった。
指一本すら動かせない。
こうなってしまえば、もうどうすることもできない。
母さんが俺を殺すことが幸福への第一歩だと、思い込むほかない。
そうしないと、死ぬ気になれない。
「――そう。それは残念ね」
そこに声が一筋、通り抜けた。
突然の声に、俺の首を絞める母さんの力も緩む。
「貴女のその願い、叶えさせるわけにはいかないわ」
見れば、そこに彼女は居た。
せっかくの白いニット帽もセーターも、泥まみれになっていて。
それでも彼女はしゃんと立ち、俺達を見据える。
「訊きたいことも言いたいこともいろいろあるけれど、とりあえず――」
水城市限定の都市伝説『闇子さん』。
彼女は青い瞳に怒気を宿し、不敵に笑う。
「この私を蹴り飛ばしたこと、あとで絶対に謝ってもらうわ。覚悟なさい」
そんな強気な言葉に、この人なら母さんを元に戻してくれる、と俺は直感した。
あとは俺が死ねば、万事解決。
しかし情けないことに、俺の意識はここで途切れてしまうのだった。
くそ。早く死んで、母さんを安心させないといけないのに。
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