4.古代椎良
「じゃあな、椎良。また来週」
「うん。今日は本当にありがと」
「どうってことねえよ。さっさと帰って、僕らからのプレゼントを見て感動して、また泣きやがれってんだ」
「うん、そうする。じゃあね」
「おう」
ヒロとそんな会話をし、校門を出たところで別れる。
あれから。
俺の誕生日会はLHRだけでは時間が足らず、そのまま放課後にまで食い込むかたちで続けられた。
どうやら今日は、どこの部活も球技大会という苛烈を極めた行程を終えたあとだからと言うことで休みであるらしく、放課後になっても誰一人抜けることなく騒ぎ通した。それでも五時過ぎには一度場を締めて後片づけを始めたはずだが、なんだかんだとしているうち、かなり遅くなってしまった。
現在、時計の針は午後六時過ぎを示している。外はもう真っ暗だった。空気も酷く冷たく、俺はマフラーで口元を隠し、家路についた。
いつもは憂鬱な帰り道も、今日だけは特別だ。
球技大会で総合優勝を果たして景品を獲得できただけでなく、まさか、誕生日を祝ってもらえるなんて。信じられないくらいに良いことが連続していて、これで母さんの機嫌が良ければ満点だなんて、それだけは絶対に有り得ないことを考えながら、俺は自転車を押して歩く。
今夜はとにかく気分が良い。鼻歌なんて歌っちゃったりなんかしたりもしてしまう。
そうして上機嫌で夕飯の買い出しをしてマンションまで帰って来たら、時刻は午後九時を過ぎていた。ずいぶんとゆっくり買い物をしたなあ、と思いながらエレベーターに乗ったところで、一度深呼吸。
思考を切り替える。
緩んだ口元を引き締めて、上昇するエレベーターとは反対に、意識的にテンションを下げていく。1404号室の前に立って鞄から鍵を取り出す頃には、すっかり『いつも通りの俺』を作れていた。
だが、珍しいことに鍵は閉められていなかった。
いつもであれば、母さんはこの時間には帰ってはこない。一日の終わりに俺の顔を見ながら夕飯なんて食べたくないからと、大抵は外で食べてくるのだ。例外として、恋人を家に連れてくる日は手料理を振る舞ったりしているらしいが――ともかく。
俺が違和感を覚えたのは、タタキにある靴の数だ。
そこには母さんの靴だけで、何度確認し直したところで、大人の男性が履くような靴は見当たらない。小井川さんが来ているというわけでもないのに、母さんが早々に家に帰って来ているというのが、やけに気になった。
心の内でざわめきが起こる。
謎の違和感に頭を抱えながらも、静かにリビングに繋がるドアを開けた。
「ただいま」
いつものように、返事などないとわかっている挨拶に、
「おかえり」
と、今日は返す言葉があった。
それは他の誰でもない、母さんである。
ラフな部屋着に着替えている母さんは、リビングの入口からすぐのところに直立し、俺に「おかえり」と言ったのだ。なにが目的なのかと勘繰る俺とうらはらに、母さんは取ってつけたような笑顔で、椎良、と俺を呼ぶ。
「おかえりなさい。遅かったね」
「……あ、うん。今日は、球技大会があって」
「そうなの」
母さんの放つ言葉の全ては棒読みも棒読みで、酷い苛つきを覚える。
「いつまでそこに突っ立ってるつもり? こっちに来れば?」
俺は二の足を踏んで、それでも母さんの言う通りにリビングに入った。
ぎぎぎ、となにかが軋む音が聞こえてきそうなほどの不一致。不調和。
「はいこれ。今すぐ飲んで」
そう言って押しつけるようにして渡されたのは、赤い液体の入ったグラスだった。アセロラジュースだろうか。
前にも一度、見たことがある気がする。それはいつだったっけ。わからない。思い出せない。俺の記憶違いかもしれない。
「早く」
苛立ちを含んだ母さんの声に、俺は急いでジュースを飲みほした。いや、飲まされたと言ったほうが、この場合は正しい。グラスを口に押しつけられて強引に口内に入れられたそれは、甘いような、苦いような、酸っぱいような、なんとも奇妙な味がした。
この味を、俺は知っている。
でも、だから、それは、いつの話なんだってば。
ここまでヒントが揃っているのに、どうして思い出せない?
だって、くらくらする。
くらくらして、ぐらぐらして、ぐつぐつだ。
「あたしの目を見なさい、椎良」
ジュースを飲み込んだ俺を見て、母さんは両手で俺の顔を掴んで、命令する。
俺は言う通りに、母さんの目を見た。そうすることしかできない。
母さんの顔に、もう笑顔はくっついていない。
その代わりに貼りつけられていたのは、なんとも形容し難い表情だった。
憎しみとか、恨みとか、忌みとか、憤りとか――そんな感情の入り混じった顔。
そんな顔で、母さんは言う。
「死んで」
なんの躊躇いも見せず。
平然と。
当然のように。
「死んで。死んで。死んで」
母さんは、繰り返す。
聞き間違えのないよう、何度も、何度も。
それを聞いて、強い眩暈を感じながらも、ああそうだ、と納得する。
そうだ、俺は死ななきゃいけなかったんだ。
どうしてまだ生きてなんかいるんだろう。馬鹿じゃないのか。いや、実際、俺は馬鹿なんだ。学年最下位をとってしまうくらいには、頭の出来が悪いんだ。しかし、そんな大事なことを忘れてしまうくらい、救いようのない馬鹿だったとはなあ。これはもう、死ぬしかない。馬鹿は死ななきゃ治らないって言うくらいなんだから。
テーブルの上には都合良く包丁が置かれていて、俺は迷わずそれを手に取った。
これで動脈を確実に切断すれば、それで良い。
さっさと死んで、母さんの願いを叶えてあげよう。
でも。
だけど。
首筋にひんやりとした包丁の感触を味わいながら、ふと考える。
俺は本当に死んでしまって良かったんだっけ?
父さんを殺してしまった償いに、生きていかなきゃいけないんじゃなかったっけ?
どれだけ不幸せだろうと死なないことだけが、古代椎良の人生に課した最大目標なんじゃなかったか?
母さんを幸せにしなくちゃいけないんじゃなかったか?
それを今ここで諦めて、本当に良いのだろうか。
俺があの日に決めたことは、そんなに薄っぺらいものだっただろうか。
こんな場所で自殺なんかして良かったんだろうか。
違う。
違う違う違う。
全部、違う。
「だ、め……だ」
なにが「駄目」なのかまでは、意識が朦朧とし過ぎていて、思考が至らない。だけど直感的に「駄目」なんだと思った。
だから俺は、母さんの願いを肯定しなかった。
そうするわけにはいかなかった。
「……どうして」
どうにか包丁をテーブルの上に戻した俺を見て、母さんは肩を震わせた。
「――どうしてあたしの言うことが聞けないのよ椎良! 言うこと聞きなさいっ!!」
絶叫が如く発せられた声に、思わずたじろぐ。
しかし同時に、朦朧としていた意識が覚醒した。
混濁していた意識が、混迷していた感覚が、猥雑になっていた思考が、正常なものへと戻っていくのがわかる。
そうしてすっきりした状態になった俺は、母さんを見る。
「ああもう――もう!」
すると、怒りに顔を歪めた母さんが、俺に飲ませたのと同じ赤い液体を飲んでいるではないか。
あれはなんだ?
飲むことでなにが起こる?
いいや、もう考えなくても答えは出てるじゃないか。
母さんはあれを俺に飲ませ、「死ね」と願った。
つまり、あれの正体は。
「――」
パリン、と音がした。グラスが床に落ちて、割れた音だった。
「……」
俯いたまま、ぶつぶつとなにかを呟く母さん。
逃げなきゃと思った。
この空気は異様だ。逃げろ。今すぐ逃げろ。
本能がこれでもかというくらいに警笛を鳴らすが、しかし相反して身体は動いてくれない。恐怖故なのか、あの赤い液体の所為なのか。はたまた、俺自身が常日頃から死にたいと思っていたからなのか。金縛りにでも遭ったかのように、指一本動かない。
「――は、いらない」
動けず突っ立ったままの俺の耳に、母さんの声が届いた。
小声で呟かれていたそれは、次第に音量を上げていく。
「要らない、要らない。椎良は要らない。椎良は邪魔者、椎良は要らない、要らない、要らない、要らないんだから殺す、椎良を殺す、あたしが椎良を殺す、殺す殺す殺す――」
言いながら、母さんはテーブルの上の包丁を掴み取る。
「椎良を、殺す!!」
それが、母さんの願いだった。
そうまでして叶えたい願い。
ああ、どうしたって俺は邪魔でしかなかったのか。
それが残念で仕方がない。
だってそれは、母さんの為にと思ってやってきたことが、全て無駄だったってことなんだから。
だけど、このまま母さんに殺されてしまって良いのだろうか。
それは幸せか?
不幸せか?
「ばいばい椎良!」
両手で包丁を持った母さんは、刃先を俺に向けると、一気に距離を詰めてきた。
狙いを外さないよう、真っ直ぐに俺を睨みつけてくる母さん。
その目は、
血みたいに、
真っ赤な色をしていた。
「――っ」
生命の危機が目前に迫って、ようやく俺の身体は脳からの命令に従うようになった。
第一撃を、すんでのところで避けた――つもりだった。まさに紙一重、遅れて右の頬が熱を帯びる。血が、頬を伝う。
俺にぶつけるはずだった勢いは背後の壁に吸収され、包丁もそこに深く刺さった。その刺さりっぷりは、平均的な体格の母さんからは信じられない威力だったが、あの勢いで切りかかってくればそんなものか?
とにかく母さんを落ち着かせて、話をしようと思った。昔の偉人も言っている、「話せばわかる」だ。
「か、母さん――」
「だァめ」
真っ赤になった目を細めて、母さんは笑った。
まるで酒でも飲んだかのように、とろんとした顔つきをしている。
どう見たって脱力しているようにしか見えない姿勢のまま、しかし母さんは、片手で深く突き刺さった包丁を抜いた。あんなの、俺だって両手で力いっぱい引っ張らなきゃ抜けなさそうなのに。それをああも容易く、あっさりと。
「言うことを聞きなさい、椎良。そこを動いちゃ、駄目」
再び、眩暈が強くなる。
だけど今は、母さんの言うことを聞いてはならない。それは駄目だ。今、母さんの言う通りにしてしまえば――その願いを叶えてしまえば、母さんは不幸せになってしまう。それは駄目なんだ。
「ごめん母さん!」
だから俺は、母さんめがけて鞄を投げつけ、その隙を突いて家を飛び出した。
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