2.古代椎良
「……」
汗が頬を伝う。紛れもなく冷や汗だ。
ごくりと生唾を飲み込み、俺はゆっくりと保健室を見回す。
本来、使用中は閉められているはずのベッド回りのカーテンが、何故か今は開けられている。俺が寝ている間に、誰か来たのだろうか。期待と不安で、心臓がどきまぎする。『おさげさん』が近くにいるのかもしれないからだ。
数日前から校内でまことしやかに囁かれている怪談――『おさげさん』。
それはその名の通り、おさげの女の子がどこからともなく現れ、いつの間にやら生徒達の雑談に混じっているという類の話である。
彼女に遭遇できた人間は、その日のうちになんらかの幸運に恵まれると言う。話だけ聞くと座敷わらしそのものなのだが、どうもその『おさげさん』、見た目は普通にうちの制服を着た高校生なのだそうだ。だから座敷わらしではなく『おさげさん』という名称で噂が広まったらしい。
以上、姫路さん情報。
彼女の御利益にあやかろうという気はさらさらないが、しかし、怖いもの見たさというのはある。『おさげさん』を驚かせないよう、なるべく自然体を装って保健室内を見回すも、人影はなし。
自分の叫び声が反響しただけだったのか、と落胆して視線を落としたところに、それは居た。
「よ、よお」
青ざめた顔とは反対に、やけに気さくに、片手を上げて挨拶をしてきたそれは。
件の『おさげさん』でもなければ、女子生徒ですらなく。
ただのヒロだった。
「あー、えっと、ヒロ……?」
さっきの悲鳴はまさかとは思うがヒロのものだったのかとか、どうして腰を抜かしたかのような体勢なのかとか、そういう諸々の意味合いを込めて、問いかける。
「お前はなにも聞いていない」
しかしヒロは腰を抜かしたと思しき姿勢のまま、ぴしゃりと言う。
「お前はなにも聞いていない。見てもいない。良いな?」
「え? いや、でも――」
「良いよな?」
「……」
「わかったらほれ、返事」
「……ハイ」
有無を言わせない目力だった。これでこの件は終わりにするらしい。
「……いやあ、今日は全く、良い天気だなあー」
強制的に話を切り替えながら、俺はベッドを脱出して内履きを履く。前の高校のものとデザインがさして変わらないからと靴紐だけ新調した、ちぐはぐ感のある俺の内履き。履き潰すことが多いから、きちんと履こうとすると少し時間がかかる。
しかし内履きを履き終えても、何故かヒロは俺を凝視し続けていた。
「……なに?」
他人に凝視されるのは、どうにも落ち着かない。
「いや、僕の気のせいだったかと思って」
「なにが?」
「瞳の色だよ」
一旦視線を切り、背にしていたベッドに座りながら、ヒロは言う。
「お前、いま叫びながら起きただろ。そのときに目ェかっ開いてたんだけど、それが真っ赤に見えたんだ」
「えー……?」
化物でも見たかのようなヒロの物言いに、俺は難色を示す。
寝不足の日が続いて目が充血していただけだろうに、そこまで大袈裟に驚くか?
「まあ、僕の見間違いだったみたいだから、それは良いんだ。それより椎良、体調は大丈夫なのか?」
ヒロにしては珍しい心配りだが、しかし無理もない。保健室で寝ていた奴が、うなされていた挙句、叫びながらに起きたのだ。ヒロでなくとも心配になる。
「ていうか、そうだ。どうして俺、こんなところで寝てたんだっけ?」
「おいお前マジか」
「え?」
信じられないといった顔で、ヒロは言う。
「今朝、派手に電柱と衝突して気絶しちまってたんだぞ、お前。保健室に運び込まれて当然じゃねえか」
電柱と衝突?
一体なんのことか、と言おうとしたところで、ふっと記憶が蘇ってきた。
そうだ、そうだった。
今朝はなんとなく気分が乗って、自転車で登校したんだ。いつも歩いて通る道を自転車で駆け抜けるのは気分が良くて、これなら春から本格的に自転車通学に切り替えるのも悪くないなあ、なんてことを考えていた。
しかし学校を目前にした、そのとき。
犬や猫が飛び出してきたわけでもないのに、どうしてか俺は急ハンドルを切って、近くの電柱に激突した。
――■■■■■■。
なにか考えがあってのことだったんだろうが……ううむ、思い出せない。
「全く、自転車が苦手なら、いつも通りに来りゃ良かったものを」
ひやひやしたぜ、と肩を竦めるヒロ。
「いや、別に俺、自転車は苦手じゃないんだよ。むしろ得意なほう」
「なにをもって自転車が得意って言ってんだよ」
「飛び石とか、ヘリコ下りとか、バニーポップ180とかできるよ。MTBでだけど」
「なんだそりゃ」
「えーとね」
「いやいい。お前のその手の説明は、擬音ばっかりでわかんないから。あとで自分で調べる」
「さいですか」
中学時代、部活にも入っていなかった俺は休日の時間を持て余しまくっていて、自転車はそれ故に始めた趣味である。不必要なほど与えられていたお小遣いの消化という意味合いもあった。使わないと、それはそれで怒られたのだ。
「それよかお前、本当に大丈夫なのかよ」
「うん、大丈夫そう」
言って、立ち上がる。
実際、調子は悪くなかった。むしろ、頭がすっきりしたくらいである。ゲーム風に言えば、体力が全回復した気分だった。夢見は最悪だったというのに、不思議なものだ。
それなら良いんだ、と言いつつ、ヒロも立ち上がる。
「あれだけ派手に衝突しておいてほとんど無傷ってんだから、大丈夫なんだろうよ」
期待してんぜ椎良、とヒロは笑う。
「どうにか特別テストはクリアできたんだ。あとは球技大会二日目の今日をひたすら勝ち抜き、目指すは総合優勝!」
「そうだね」
頷いて、保健室をあとにする。
訊けば、どうやらもうすぐドッジボールの試合が始まるらしく、スタメンに組み込まれている俺の様子を見に来てくれたのだそうだ。
廊下を少し歩いていけば、体育館からの喧々とした様子が聞こえてくる。
十二月二十日。球技大会二日目。
この日の為に、クラスメイト達によるスパルタ勉強会と特別テストを乗り越えてきたのだ。目一杯活躍しなくては。
「そういえばだけど」
ドッジボールの会場である小体育館へと足を進めながら、ふと思い出す。
「保健室に来たときにカーテンを開けたのって、ヒロだよね?」
しかしヒロは、なにを言うんだとばかりのしかめっ面で、
「いや? 僕が来たときにはもう開いてたけど」
と答えた。
妙な話だ。
あのカーテンは、病人が寝ているときは閉めるものだ。保健の先生であれば、カーテンを開けて様子見をしたとして、開けっ放しにするということはない。昨日今日に限って言えば、保健委員会が体育館に臨時救護班を配備しているから、保健室まで来る生徒は少ないわけだし。
となると、残された可能性は、あとひとつ。
「……本当に『おさげさん』だったのかな」
呟いた俺に、ヒロは身体ごと俺のほうを向いた。
「なに?! お前も『おさげさん』に会ったのかっ?!」
「いや、確証はないんだけど――って、え? お前も?」
「いやさ、実は僕も三日くらい前に遭遇したみたいなんだ。あれは確か、椎良のテスト合格に向けた作戦会議のときだったな。クラスの奴ら五人で話してたんだが、ほんの数分だけ頭数が多かった気がするんだよ」
「おお。で、なにか良いことはあった?」
「その日、お前が初めて等差数列に理解を示した」
「ああそう……」
なんだろう、素直に喜べない。そこまで奇跡的なものと思われていたのか。
「とはいえ、椎良も『おさげさん』と遭遇できたとあれば、D組の勝利は決まったも同然だな! ふはは、学食無料優先券はすぐそこだぜっ!」
悪役の如く高笑いをするヒロと共に、小体育館へと入る。すると、丁度女子ドッジボールの試合が終了したところだったらしく、わっと歓声が沸き上がった。
「ど、どっちだ? どっちが優勝した?」
俺の記憶が正しければ、女子ドッジボール決勝戦は、二年D組対二年A組。
急いでD組のみんなの元へ行くと――そこは、笑顔に満ちていた。
女子ドッジボール決勝戦。
優勝したのは、二年D組だった。
「これは、僕らも負けられねえな。女子が優勝を勝ち取ったのに男子が優勝できなかったら、悔しいなんてもんじゃねえ」
珍しく喧騒の中に入らず、俺の隣で唾を飲み込むヒロ。
「それ、昨日の卓球の決勝進出を賭けた戦いでボロ負けした人が言う台詞かなあ」
「なっ、うるせえな。あれは消える魔球を攻略されなきゃ勝ててたんだよ」
「攻略されたから負けたんじゃん」
聞く話によれば、対戦相手はヒロと同じ中学出身で、消える魔球の開発を手伝った奴らしい。よくもまあ、魔球の仕組みを知ってる奴を相手にそれを使おうと思ったものだ。
「……。死ね」
「すぐ『死ね』って言うの良くないと思イマス。……いや、あの、ヒロ、本当ごめんて。謝るから、全力でガンつけてくるのやめてくれない?」
体育会系の本気の睨みは、すさまじいほどの迫力を伴うのだ。
「はん、卓球の消える魔球が攻略されたくらい、なんだってんだ」
審判が二年D組の勝利を宣言し、女子がコートから撤退していくのを見ながらに、ヒロは言う。その目には、闘志がぎらぎらと燃えていた。
「お前には言っていなかったが、僕はあとふたつ奥義を残していてな。小学校時代、ドッジボールの申し子と呼ばれた実力、見せてやんぜ!」
「清々しいまでの敗北フラグだなあ」
「なんか言ったか」
「ううん、なにも。頑張ろうぜー」
「やる気のねえ『頑張ろうぜ』だが、まあ良いや。お前にも期待してるからな、椎良!」
「うん」
軽くストレッチをしながら頷いた。
電柱に激突したという割に、身体に不具合は感じられない。全く、ここまで受け身が上手くなってしまっていたというのも、なかなかどうして皮肉な話だ。
さて。男子ドッジボール決勝戦の相手は、三年F組。
別に俺は本気で優勝を狙ってはいないけど、せっかくだし、適当に頑張るとしよう。
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