1.古代椎良
「とうさんかあさん、はやくはやく!」
芝生のひかれた広場。
見たことのないアスレチック。
大きな池に、白鳥ボート。
視界いっぱいに広がるそれを見た俺は、早くここで遊びたくて、後ろからゆっくり歩いてやって来る二人に向かってそう叫んだ。
――すぐ行くから、ちょっと待ってくれ。
父さんは苦笑いを浮かべながら、俺にそう言った。
しかし、声が聞こえない。音声が遮断された映像を見せられている気分になる。
けれど幼い俺は、そんな奇妙な現象に対してなんの疑問を抱くことなく、早く早くと二人をさらに急かすのだった。
ああ、そうか。
これは夢だ。俺は今、夢を見ているんだ。
そうでなければ、こんな光景は有り得ない。
父さんがいて、母さんがいて、俺も含めて三人が楽しく笑っているなんて。そんなの、今じゃ考えられない。
なにより、このだだっ広い公園には見覚えがあった。ここは六歳の頃に一度だけ訪れた場所であり、家族で遊びに行った最後の場所だ。
「ねえ、まだー?」
しびれを切らした六歳の俺は、一旦父さんと母さんの元へ戻る。
「はやくあそぼ!」
そう言って、両手に持っていたサッカーボールを顔の高さにまで上げた。
父さんと母さんは、そんな俺を見たのち、互いに目配せして笑う。
やれやれ、と言いながら、母さんは持っていたカメラとビニールシートを父さんに預け、俺の頭を優しく撫でてくれた。
――じゃ、先に母さんと遊んでよっか!
母さんの声も、聞こえない。
しかし俺は気にせず、首をぶんぶんと縦に振って頷いた。
――あなたも早く来てね。
適当な場所を探して荷物を広げようとする父さんに、母さんはそう微笑みかける。
とても温かい笑顔だった。
「かあさん、いくよー!」
少し離れた場所に立った母さんに向かって、俺はボールを蹴った。
上手だね、と言いながらボールを足で受け止めた母さんが、俺にパスを出す。お互いの間にボールを行き来させているだけだったけれど、このときの俺にとってはたまらなく楽しかった。
少しして、荷物を目の届く場所に置いてきた父さんが、カメラ片手に合流する。
父さんの蹴ったボールが俺の頭の上を通過するようにして吹っ飛び、俺はそれを追いかけた。
遠くに飛んでしまったボールを拾って、父さん達のところへ戻ろうと振り返ったそのとき。
突如、視界が真っ暗になった。
公園に満ちていた楽しげな声も、木々のさえずりも聞こえなくなり、辺りは静寂に包まれた。
持っていたはずのサッカーボールもどこかに消えた。
誰もいない。
なにも居ない。
怖くなって、俺はがむしゃらに走り出した。
前も後ろも、俺が俺であるという確証さえ得られない真っ暗闇の中、それでも俺は走った。
進んでいるのかすらわからない。けれど、そうでもしないと、俺すらも呆気なく消えてしまう気がした。その場に留まっているほうが駄目だと思った。
手も、足も、なにも見えない。
走れども走れども、疲れもしない。
本当は始めから俺なんて存在していないんじゃないかと思った頃、不意に細い光が現れた。
明るい場所に出られる。
それが嬉しくて、俺は躊躇うことなく光に飛び込んだ。
そうして光の先に見えてきたのは、見覚えのある家。
立派な日本家屋だった。
楽しい思い出と嫌な思い出が半分ずつのあの家で、この日の俺は全く笑えていなかった。
ずっと奥にある部屋に閉じこもり、両手で強く耳を塞いで、父さんと母さんの口論を聞くまいとしていた。
であれば、これは一番酷い頃の記憶だ。
小学四年生の俺を俯瞰しながら、ぼんやりと考える。
耳を塞ぐだけじゃ足りなくて、真夏に布団にくるまったりもしていた。
あのときは、暗闇の中に居るほうが落ちつけていた気がする。そうすれば俺は俺を視認できないから、そこに居ないような気分になれた。居ないのなら、辛くもない。
感傷的になっているうち、再び暗闇がやってきた。
今度はそれを、怖いと思わない。
いっそこのままでも良いと思うくらいだったが、また光が現れ、俺は吸い込まれるようにしてそこに行く。
父さんと母さんの離婚が成立すると、俺は母さんに連れられて、大好きだった日本家屋を出て行った。
あのとき、父さんはどんな顔をして俺達を見送ったのだろう。覚えていない。見送りなんてしてくれなかったかもしれない。
そうして、おじいちゃんとおばあちゃんが用意してくれたという高級マンションで、母さんと二人きりの新生活は始まった。
転校先は私立の小学校だった。
周りは成績の良い奴ばかりで、ついていくのに必死だった。けれど変化といえばそれくらいで、これといって戸惑いはなかったように思う。
都会で生活するようになって、初めて生活が一変したと感じたのは、母さんが俺に習いごとを始めさせたときからだ。
将来きっと役に立つからと、ピアノ、書道、英会話、そろばん、学習塾等々。今思えばインドアなものばかりが揃ったものだと思う。きっと、スポーツをやらせたら、試合だ怪我だと手間がかかったからだろう。
この頃から母さんに邪魔者扱いされ始めていたのだが、当時の俺は気がつけない。明らかに家に居る時間が減っていたのに、気づかなかった。むしろ、習いごとで忙しい放課後が物珍しくて、一時期は熱心に打ち込んでいたくらいだ。
暗闇がやって来る。光が刺す。
「聞いて、母さん。今度ピアノの発表会があって、俺も出ることになったんだ! 『ジムノペディ』って曲なんだけど、先生が、椎良君は上達が早いから発表会までに弾けるようになるよって!」
「その日は仕事だから行けない」
「え? いや、でも、日曜日だし……」
「忙しいの。もう良いでしょ?」
「……ごめんなさい」
暗闇がやって来る。光が刺す。
五年生の冬休み。
俺は都会での生活に息苦しさを感じて、衝動的に新幹線に飛び乗った。
それまで貯めていたお年玉を全部開けて、駅員さんに切符の買いかたからなにから全部訊いて、遥々父さんに会いに行ったのだ。
勝手に家を飛び出してきたから怒られるかもしれないと考えつつ、駅の公衆電話から父さんに電話をかける。すると、父さんはふたつ返事で駅まで迎えに行くと言ってくれた。
父さんと合流した後、駅前でご飯を食べることにした。父さんと会うまでなにも食べずにやって来ていた俺は、父さんから「お腹は空いてないか?」と言われて、ようやく空腹を自覚したのである。
なにを食べようかと相談しながら、駅前通りを父さんと歩く。
――椎良、母さんとは上手いことやれてるか?
――母さんの言うことは、きちんと聞けよ。
――お前が、母さんを守ってやるんだ。
父さんは俺の頭を撫でながら、そんなことを言った。
俺はそれに、力強く頷いた。
その日は風が強くて、お気に入りだった傘が飛ばされたことを覚えている。
傘を追いかけて走り出した、そのとき。
低い音を立てて、勢いよく風が吹いた。
恐らく、その日一番の強さだったのだろう。
ギギギギ、と金属の軋む音がした。
少し後ろのほうからした音に、反射的に目を向ける。
その不穏な音は、ビルの看板が発したものだった。
強風によって金具が外れ、支えを失った看板は、重力に従い落下した。
丁度その真下に居た父さんは、
逃げる隙もないまま、
潰された。
風に乗って運ばれてきたのは、むせ返るような血のにおい。
かつて看板であった鉄の塊の下からは、どろりと血が流れ出した。
一瞬の静寂の後、とってつけたように悲鳴が上がり、群衆がどよめき、救急車が駆けつける。
かつてないほどの騒音のど真ん中に居るはずなのに、俺の耳にはなにも届いていなかった。
なにが起きたのかわからなくて、わかりたくなくて、俺はされるがまま、気がつけば救急車に同乗した。
無音の世界。
白黒の世界。
父さんは死んだ。
即死だった。
ついさっきまで俺の隣を歩いていて、普通に話をしていた父さん。
二度と話すことができなくなったなんて、信じられるわけがなかった。
質の悪い冗談だと思った。
笑えない冗談だから、起きるなら今だよ。
病院の霊安室で、何度そんなことを呟いただろう。
それでも父さんが目を覚ますことはなかった。
暗闇がやって来る。光が刺す。
父さんの葬式までの段取りは、極めて淡々と進められていった。
努めて感情を殺して葬式の準備をしてくれていたのであろう大人達の姿は、しかし当時の俺には、非常に冷たく映った。
母さんは葬式に来なかった。仕事が忙しいと言っていた。それなら仕方ないと半ば無理矢理に自分を納得させて、俺は一人で葬儀に参列した。
父さんの葬式で、俺は一度たりとも涙を流せなかった。泣いたら少しはすっきりするかもしれないと思ったけど、どうしても泣けなかった。
父さんは、俺の所為で死んだようなものだ。
あの日、俺が連絡もなしに父さんのところへ行かなければ。
父さんに電話をかけず、自力で日本家屋に帰れていれば。
俺が駅前で昼飯を食べたいなんて言わなければ。
そうすれば、父さんは看板に潰されて死ぬことなんてなかったのに。
こんな俺に、父さんの死を悲しんで涙を流す資格なんて、ない。
――お願いだから。
父さんの葬式から帰って来た俺に、母さんは言った。
――お願いだから椎良、これからは、ちゃんと良い子でいなさい。
暗闇がやってくる。光が刺す。
「本っ当にもう、お父さんのわがままなんて聞くんじゃなかった! 孫なんて兄さん達の子どもで充分じゃない。どうしてあたしにばっかり期待するのかなあ。自分の娘が生んだ子供って、そんなに大事? みんなが椎良の将来を考えるならとか言うから、わざわざあの田舎から連れてきたけど、やっぱり子持ちって駄目なんだよね。それだけで敬遠されちゃうんだよ。ねえお母さん、椎良を預かってくれない? 駄目? 椎良は文句なんて言わないよ。だってあの子、なにがそんなに嬉しいのか、四六時中にこにこ笑ってるんだから」
暗闇がやって来る。光が刺す。
父さんが死んでから、母さんはあからさまに俺を邪魔者扱いするようになった。
小学校を卒業するまでの間、習いごとは増え続けた。
家に居る時間はほとんどなくなっていた。
家に居るときは、母さんに殴られたりすることが多くなった。
けれどそれで母さんの気が晴れるならと、俺は笑顔で誤魔化し、我慢した。
母さんはそれを気味が悪いと言って、さらに俺を打った。
どうすれば〈良い子〉になれるのだろう。
そればかり、必死になって考えた。
だって母さんに見捨てられたら、俺は一人になってしまう。
そうならない為には、こうするしかなかった。
いっそのこと死んでしまえたら、と思うことは少なくなかった。だけど、それだけはできない。してはいけない。
父さんを殺してしまった俺は、決して幸せになどなってはいけないのだ。
自殺なんて逃げかたは、父さんに悪い。どれだけ母さんに殴られようと、それでどんな怪我を負おうと、死なずにいることこそが父さんへの償いだと思った。これは、俺の生涯をかけて背負うべき罪なのだ。
一方で、母さんには幸せになってもらいたかった。
それが父さんとした、最期の約束だったから。
だから母さんの言葉は絶対で、全て肯定する。母さんの幸せの為にできることがあれば、どんなことでもやろう。そう思った。
暗闇がやって来る。光が刺す。
母さんが一度目の再婚を決めたのは、俺が中学一年生のときだった。
新しいオトウサンと一緒に暮らす為、俺と母さんは関西圏へと引っ越した。
俺が大事に持っていたアルバムから父さんの写真が消えているのに気がついたのは、母さんが二度目の再婚をして、引っ越しを終えた頃だった。
暗闇がやって来て、そして、光は刺さない。
ずっと暗いままだった。
なにも見えない暗闇に一人立ったまま、俺はこのままであれば良いと思った。
世界は半分も見えていれば充分で、全てを見る必要なんてない。そんなのは、疲れるだけだ。
適当に笑って誤魔化していても、存外簡単に生きていけてしまう。それがどれだけ滑稽と言われようと、ひどく哀れだと嘲笑されようと、流れに逆らわず、死なずにさえいれば他は構わなかった。
「古代椎良。こっちを見なさい」
背後から母さんの声が聞こえて、俺は振り返った。
暗闇の中、母さんの姿だけがぽつんとそこに在る。
母さんは俺を見て、言う。
その先の言葉を聞きたくなくて、俺は昔のように、両手で耳を塞いだ。
「死ねば良いんだよ。あんたが死ねば、あたしもあんたも、幸せになれる」
死ね、と。
聞きたくなかった言葉は、どうしてだろう、しっかりと耳に届いた。届いてしまった。
刹那、足場が崩れるような感覚に襲われる。
落ちて、落ちて、落ちて、落ちていく。
暗闇の底へ落ちるのだと思った。
母さんは落ちていく俺を見下ろし、なにか言った。
口のかたちを見れば、なんと言ったのかなんて明白だった。
底の見えない闇に落ちていくのも、それを無表情で見ているだけの母さんの顔も、声も、圧死した父さんも、全部が全部、怖くなって、そして、俺は――
「――ああああああああ!!」
「ひぎゃあああああああ!!」
叫びながらに、目を覚ました。
心臓がばくばくと痛いくらいに脈を打つ。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら、飛び跳ねる心臓を抑えつけ、ゆっくりと息を吐く。
今のは夢だ。現実じゃない。
こっちが現実で、ここは……どこだろう?
はたと見回してみても、慣れない風景に混乱は増すばかりだった。
白で統一され、観葉植物など置いて安らぎ感を与えるこの部屋は……さては、保健室だろうか。どうやら俺は、そのベッドで寝ていたらしい。
暗闇なんてない真っ昼間。
大丈夫、大丈夫。
何度も心の中で呟き、呼吸を整える。
落ち着きを取り戻してきたところで、ふと、あることに気がついた。
今しがた、俺以外の叫び声も聞こえたということに。
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