16.墨子
「良かったねー、憶屠ちゃん。じゃあ僕からお祝いに、これをサービスしよう」
水無瀬はそう言うと、寿司下駄に寿司を五貫乗せて憶屠の前に置いた。
「お、お寿司だ! 良いのか?」
「うん良いよー」
「ありがとう水無瀬さん! それに――闇子さんっ!」
感極まって私の腕に抱きついてきた憶屠。
しかしそれよりも、聞き捨てならない名詞を吐いたことのほうが気になった。
「ちょっと、なによその呼びかた」
闇子さん、と言ったか。
「え? あんたのことだぞ」
「私は、闇子なんて名前じゃないのだけれど」
「……もしかして、知らないのか?」
見当違いな指摘を受けたと言わんばかりだけれど、知らないものは知らないのである。
「『叶え人』と並んで話されている都市伝説だぞ、『闇子さん』って」
「だから、なによそれ。私のことなの?」
「無論だ。『闇子さん』っていうのは、ある呪文を唱えれば、そこそこの確率で助けてくれる女の人がいるという都市伝説だ。『叶え人』の話が広まった少し後に広まった話だから、もっぱら叶え人になってしまった人を元に戻してくれる人として、その名を馳せている。そもそも半年前、ボクがあんたを尾行してみたのも、この話で挙げられている闇子さんの特徴が、あんたと一致したからだし」
「そんなものまであるの……」
呆れ顔の私に、闇子さんの特徴はふたつある、と、憶屠は右手の指を二本立てる。
「ひとつは、全身真っ白な服を着ているということ。もうひとつは、髪がとても長いということだ」
「そんなの、私以外にもたくさんいるじゃない」
「うむ。だから人違いが多発しているぞ」
「……」
私の存在が都市伝説化していたという事態に、ひどく気が遠くなるような思いになる。
「というか、ある呪文ってなによ。叶え人になった人を元に戻して欲しいと頼まれはするけれど、呪文なんてものを唱えられた覚えはないわ」
「え、でもこの間だって言われてたじゃないか」
「言われてないわ。というかこの間って、貴女、どこから見てたのよ」
「うっ……。そ、それより本当に、目の前で呪文と唱えられた記憶はないのか?」
「しつこいわね。ないって言ってるでしょう?」
「えー……?」
納得がいかないとばかりに頬を膨らませる憶屠。
けれど実際、そんなものを唱えられた覚えはないのだから仕方ない。
「――『 』」
ぼそりと、憶屠は言う。
「これが、闇子さんに助けてもらいたいときに、唱える呪文なのだが」
「……それは……」
「むむ? その感じ、聞き覚えがあるのではないか?」
「……」
非常に遺憾ながら、その文言には聞き覚えがあった。
具体的には、去年くらいから結構な頻度で耳にするようになった言葉だ。
助けを求めてやって来た五人に三人ほどの割合で、私にそんなことを言われるようになった。しかも言うだけでなく、後日、深津桜介について聞き取りに行った際に有言実行するものだから、厄介だと思っていたのだ。なるほど道理で、どんぴしゃなはずだ。
「ちなみに。この間、九十九さんにこの話をしたら大爆笑していたぞ」
上機嫌の憶屠は、楽しげに言った。
「この間って、どのくらい前よ」
「先月くらいかな。爆笑しながら、『じゃあもうひとつ、目つきが凶悪ってのも追加しとけ。そしたら人違いはなくなるだろ』って言ってた」
「あのもずく……」
先月といえば、この件について知っていることはないかと、九十九に相談をした記憶がある。
となると、あの男、知っていて黙っていたのか。割と真剣に悩んでいたというのに。憶屠をここへけしかけた件も合わせて、今度会ったら、本当、ただじゃおかない。
「あ、闇子さん。ボクもそういう呼びかたが良い」
「どれよ」
「その、九十九さんを『もずく』って呼ぶみたいな奴。コードネームみたいで格好良い!」
「別にこれは――」
ただの悪口だ、と言おうとして、ひとつの案が浮かんだ。
「じゃあ、そのコードネームってのをつけてあげたら、私のことはきちんと名前で呼ぶと約束しなさい」
「えー、どうして。闇子さんのほうが格好良いじゃないか」
「いろいろとアウトよ」
年齢的に考えて、その手の二つ名は恥ずかしいことこの上ない。
それに、憶屠のことだ。街中で出会ったときに大声で私を呼ぶに違いない。その際、どうやらかなり有名になっているらしい『闇子さん』の名で呼ばれるだなんて思うと、寒気がする。目立つどころの話じゃない。
「むう。しかし、本人が嫌がるのであれば仕方ないな。了解だ、墨子サン」
不服そうではあったが、それでも憶屠は頷いて見せた。
「それじゃあ約束だ。ボクにコードネームをつけてくれるな!」
「わかったわよ……」
「やったあ!」
「……憶屠の名字って、斜村だったわよね」
「そうだ。斜村憶屠。それがボクの名前である」
「それなら――」
斜村憶屠。
はすむらおくと。
オクトハスムラ。
「――……タコ。タコね」
「んむ?」
寿司下駄から玉子を取って食べていた憶屠に、言う。
「だから、タコって言ったのよ。貴女のコードネームはタコ。それで決まり。文句を言うようであれば――」
「文句などあるわけないだろう!? ありがとうっ!!」
「……」
満面の笑みで感謝された。
皮肉を込めたつもりだったのに、ここまで純真無垢に喜ばれると、さすがに良心が痛む――いや、痛まない痛まない。痛ませない。
これはそう、次への伏兵なのだ。誰しも日常的にタコ呼ばわりはされたくはないはず。憶屠だって、いつかはこの呼びかたに嫌気が差すときがやってくるだろう。そしたら、「そう呼ばれたくなければ、私とはきっぱり縁を切ることね」と言ってやるのだ。そうすれば憶屠はこちら側から足を洗うだろうし、私も余計な心配をしなくて済むし、万々歳である。
「それじゃあ改めて、今回の調査は頼んだわよ、タコ」
「イエス、マアム!」
「……」
高校生とは、こんなに毒気のない生き物だっただろうか。このくらいの年頃は、なんというか、もう少し捻くれているものだと思っていたけれど。
「変な子」
ため息をつくように呟いたその言葉は、しかししっかりと憶屠の耳に届いたらしく、
「お褒めに預かり光栄だ!」
なんて、皮肉でなく直球で返された。
異質であることを望み、平凡を嫌う。全くもって面倒な生きかただ。
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