14.墨子
「午後九時三十五分。ほほう、ボクの予想より二時間以上も早い到着だったな」
右手首に巻いた腕時計を見て、少女――憶屠は言う。
「あんたのことだから、もっと深夜にならないと来てくれないかと思ったぞ。それとも、今日が例外的に早いだけなのか?」
「憶屠、貴女一体誰に――」
誰にここまでの道のりを聞いたのよ。
そう問い詰めようとしたのも束の間のこと。
「墨子ちゃん、ご注文は?」
と。
水無瀬の言葉によって遮られてしまった。
「今日はなんにする? 墨子ちゃん」
にこにこと笑みを浮かべつつ、有無を言わせない様子の水無瀬。
「……」
この居酒屋には、ふたつのルールがある。
一つ、馬鹿騒ぎはしない。
一つ、喧嘩はしない。
普段、あれだけ能天気そうに振る舞う水無瀬だが、このルールにはやけにこだわっている。どれだけ付き合いの長い常連客であっても、必ずルールを遵守させている徹底っぷりだ。ルールを破れば容赦なく店から追い出し、二度と敷居を跨ぐことを許さない。理由としては、この店の基本方針として「静かに酒と料理を楽しむ」があるからだそうだけれど。
「……いつもので頼むわ」
それにしたって厳しすぎるだろうと思いつつ、私は憶屠へ向けるはずだった数々の言葉をぐっと飲み込み、水無瀬に注文をしたのだった。
情報収集の為にも、この店から出禁をくらうわけにはいかない。『みなせ』には、それだけの価値がある。
「おっけー」
さきほどまでの殺伐とした雰囲気などなかったかのような笑みを浮かべると、水無瀬は厨房に向かった。
「それで、憶屠。ここまでの道のりは、誰に教えてもらったのかしら」
調理を開始した水無瀬の後ろ姿をなんとなく眺めながら、今度は努めて冷静に、喧嘩腰にならないように、憶屠に尋ねる。ここは大人として、心に余裕を持って対応しよう。
「九十九さんだ!」
「あいつか……」
大人の余裕が逃げ出しそうだった。
私がどうやってこの女子高生をこちら側から引き離そうか、あくせくしていることは知っているだろうに……。いや、知っているからこそ、なのか。あのおっさんのことだ、そっちのほうが面白そうだとかなんとか言って、憶屠にこの場所を教えた可能性は極めて高い。
さて、この状況。一目瞭然のこの状況。
私はため息をつきながら、自身の置かれた状況を今一度整理することにした。
私こと墨子は現在、この女子高生につきまとわれている。
かれこれ半年ほど前のことになるが、叶え人の事件を解決する一部始終をうっかり目撃されてしまったのが始まりだ。あのときは多量にスクラヴを投与していて、かなり理性を飛ばした状態だったとは言え、あれは失態だった。それでも今日までのらりくらりと憶屠をかわし続け、そろそろ諦めもつく頃だろうと思っていたのだけれど。
「そろそろ観念して、ボクも仲間に入れてみないか?」
「駄目だって言ってるでしょ」
「ぶー」
「駄々をこねても、駄目なものは駄目よ」
この通り、全く諦めてなどいなかった。
最近の子どもの癖して、粘り強さが半端じゃない。
最近の子ども。
十七歳。
憶屠は、『普通』であることに強い嫌悪感を抱いている。利き手の逆である左手で食事をし、右腕に時計を巻き、一人称を「ボク」にして、でき得る限り『普通』から離れて生きている。
どうしてそんな面倒臭い生きかたを選んだのかについて、私は訊いたこともないし、訊くつもりもない。しかしその『普通』からの逸脱のひとつとして、私は目をつけられてしまったのだ。
『普通』であることを憶屠は嫌うが、『普通』だからこそ得られる幸せは多いと、私は思う。たとえ憶屠がそれを拒絶すると言い張っても、彼女はまだ未成年だ。こんな危険なことに巻き込んで良いはずがない。
だから頑なに、私と関わり合いになろうとする憶屠を避け続けてきたというのに。
あのグラサンのおっさんは、全く、なにを考えているのか。
「まあまあ墨子ちゃん。別に涼さんも、墨子ちゃんへの嫌がらせってだけでやったわけじゃないみたいだよ」
言いながら、水無瀬は私の前に刺身と、ウーロンハイの入ったグラスを置く。
「ほら憶屠ちゃん、早くここへ来た理由を話しちゃったほうが良いよ。お刺身があるうちに話さないと、墨子ちゃんの機嫌がどんどん悪くなっちゃうから」
「うるさい水無瀬」
いつもより好物のイカが多めに盛られていると思ったら、そういうことか。その程度で機嫌を取ろうなんて、子どもじゃあるまいし、私に通用するなんて思わないで欲しい。
全くもう、と思いつつ刺身に箸をつける。『みなせ』は客が来ない癖して刺身の鮮度は抜群で、そこらの料亭に引けを取らないのだ。
「美味しい? 墨子ちゃん」
「ええ、とても――いや、ふ、普通よ普通」
「そっかー」
「そうよ」
今日は薬の摂取量が少ないのだった。油断していると、澄子の口調になりかねない。
気を取り直し、それで、と憶屠を問い詰めることにする。
「どういう用件があって、貴女は九十九にここの場所を教えてもらえたのよ」
「うむ、それなんだがな」
言いながら、憶屠は椅子に掛けていたウエストポーチから、一通の茶封筒を取り出した。
「仕事が忙しくてここへ来れない九十九さんの代わりに、これを渡すようにと頼まれたのだ」
「……」
仕事が忙しかった試しなんてないじゃない、と心の中で毒づきつつ、憶屠から茶封筒を受け取る。
中には、写真が数枚入っていた。
荒らされた体育館倉庫の写真が三枚。コンクリート部分が不自然に抉れている遊歩道の写真が一枚。そして、高校生くらいの男が映っている写真が二枚。写真の裏には、それぞれ九十九の字で、現場の住所が簡素に書かれている。
「九十九さんが言うには」
写真を眺める私に、憶屠は言う。
どうやら、補足説明も預かってきているようだ。
「昨日の深夜、黒崎高校の体育館倉庫にこの少年が侵入して、倉庫内の備品を派手に破壊したそうだ。また、その前後と推測される時間に、川沿いの遊歩道もこの有様だ。犯人はこの少年で間違いない、とのことだ」
「ふうん」
憶屠の説明を聞きながら、改めて犯人の映っている写真を見る。
体育館倉庫の荒らされようは、まずもって酷いとしか言いようがなかった。これは「特定のなにか」を壊したいというより、もっと単純に、壊すことにのみ専念した結果だろう。
遊歩道は、そこがスクラヴを飲まされた現場と考えて良い。「壊せ」という命令を下され、勢いそのままコンクリートを抉った、というところか。
犯人が映っているうちの一枚は、登校中の様子のようだ。長めの髪の毛のおかげで目立ちはしていないものの、右の頬に大きめの絆創膏が貼られている。体育館倉庫で暴れ回って、頬を切ったのかもしれない。であれば、この写真は今朝撮ったものか。
もう一枚のほうは、監視カメラから引っ張ってきたものなのか、画質がかなり粗い。けれどはっきりと、その瞳が赤く染まっているのは確認できた。
「ここまでお手本みたいな死んだ魚の目は初めてみるけれど……間違いないわ、叶え人ね」
誰かの願いを聞き入れ、実行せざるを得なくなった叶え人の瞳。
血色の瞳だ。
「だけど、どうして体育館倉庫の備品なんて壊させたのかしら」
いじめ、証拠隠滅、憂さ晴らし、学校への反抗行為。いくつか候補は挙げてみるが、いまいちピンとこない。叶え人にすがるほどの願いだとは考えにくいのだ。
「何故に犯行動機を考えているのだ?」
オレンジジュースを飲みながら、憶屠は言う。
「叶え人なんて、確保してしまえばこっちのものじゃないか。叶え人を元に戻せれば、それで解決だろう? さっさとあれを使っちゃえば良いじゃないか」
まるでこっちが常識を弁えていないかのような物言いに、思わず皮肉が口をついて出そうになったが、そこはぐっと堪えて、
「そう簡単な話じゃないからよ」
と、大人の対応で返す。
冷静に。あくまでも冷静に、だ。
「じゃあどういう話なんだ?」
「それは――」
私の目的は、あくまでも深津桜介を探し出すことにある。
叶え人の凶行を止めることが目的では、ない。
そんな善行に勤しめるほど、私はできた人間ではないのだ。
「――原因を、根本から断つ為よ」
細かい説明を省いて、私はそれだけ伝えた。
「根本から……? ああ、なるほど。魔法の薬を貰った人間を野放しにしていては、他の人間が叶え人になってしまう可能性も拭いきれないからだな。そうか、なるほどなるほど」
そう言って憶屠は一人で勝手に納得していたが、あながち間違いでもないので、敢えて訂正はしない。
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