13.墨子
動きやすい黒のスキニーパンツに脚を通し、腰元には現金やワクチン、その他に最低限必要なものを入れたシザーバッグを下げます。これをむき出しにして出歩くと悪目立ちしてしまうから、肩口までざっくり開いたチュニック丈の白いニットで腰元を隠します。
普段は後ろでひとつにまとめている腰まで届きそうな髪は、結わずにそのまま。
白いニット帽は深めに被って、つり目がちな目元を隠せば、できあがり。
慣れた手つきで着替えを済ませて全身鏡の前に立ち、わたしは鏡の中のわたしを見つめました。
「桜介さんの捜索を開始します。今日は情報収集だけ」
鏡の中の自分自身に言い聞かせるよう呟いて、わたしはあらかじめ用意していたスクラヴを飲み干しました。口の中には、薬物独特の味が広がります。この味だけはどうにも苦手で、いつまでたっても慣れるものではありません。
刹那、強い眩暈に襲われましたが、それもすぐに治まります。今日は摂取量が少なめだから、眩暈も比較的軽いものでした。薬の味とは反対に、この眩暈に身体が慣れてきてしまっているのが、少しだけ気になります。果たしてそれが良いことなのか悪いことなのかは、さておき。
「貴女は墨子――私は、墨子」
薬の作用で瞳の色素が減少し始めたのを見計らって、鏡に映る自分に命令します。
「深津桜介の捜索を開始する。今日は情報収集のみ」
すると、暗い表情をしていたわたしは引っ込んで、代わりに出てきたのは、機嫌の悪そうな表情である。気弱なわたしのままではあまり目立つことのないつり目が、私になった途端、その凶悪性を如何なく発揮し出す。我ながら、何度見ても不機嫌を極めた表情だ。
鏡に近寄り、瞳の色を確認する。今日の摂取量は少量だから、瞳の色素もそれほど減っていない。琥珀色と言ったところか。
十二月十一日。時刻は午後七時四十分。
冬の空は早々に夜の色に染まり、ひんやりとした空気に覆い尽くされている。
小さく深呼吸をして、私は外へと一歩踏み出した。
「……さて」
まずは人通りの少ない道を選びながら一旦駅前まで出て、適当なベンチに腰をかけて人の流れを観察することにした。そこに深津桜介が紛れ込んでいないか、叶え人はいないか、スクラヴを持っている人間はいないか。神経を集中させて、じっと目で追う。
しばらくの間見張っていたが、残念なことに今日の収穫はゼロだった。
すっかり冷えた手先を摩りながら、今度は人気の少ない路地へと足を向ける。
今日は情報収集のみ。
駅前でなにも収穫がなかった以上、他に行くところは、あとひとつ。
別段、誰かに目撃されない為に路地裏ばかりを好き好んで歩いているわけでは、決してない。誰がどう見ても、今の私を伊神澄子と同定するような人はいないのだから。それでもこうして路地裏を選んで歩くのは、ここ二年ほどの経験則に過ぎない。
「……」
水城市内の人間を使って実験を繰り返す深津桜介を探し始めてから、もう二年が経つ。
深津桜介の足取りを追う手掛かりとして叶え人の事件に関わるうち、スクラヴがどれだけ悪質な薬なのか、嫌でも知ることとなった。
どんな願いでも叶えてくれるという謳い文句は、人の裏側にある暗い感情を丸裸にする。心の奥底のぼんやりとしていた感情を、輪郭まではっきりと自覚させるのだ。
これが深津桜介のやりたかったこと。
事件に関わる度に吐き気すら覚えるけれど、それでも私は諦めない。
スクラヴを飲ませた人間――事件の真犯人は、必ず深津桜介と接触しているのだ。事件を解決へと導けば、少なからず深津桜介の情報を得ることができる。それを元に足取りを追う。その間にもまた新たな事件は起こり、事件を解決し、足取りを追っての繰り返しだ。
遠回りな方法なのかもしれない。けれど私は、スクラヴのワクチンを持っている。決して、闇雲に事件に頭を突っ込んでいるわけではない。
それに、スクラヴにより極端に理性が飛ばされた叶え人を元に戻すことができる唯一のワクチンが私の手元にもある以上、深津桜介にとっても無視できる存在ではないはずだ。
今度こそ、確実に息の根を止めに来るかもしれない。
けれど私だって、あのときのままではないのだ。
今の澄子には私がついている。
私なら、叶え人化した人間にも対抗できる。
深津桜介と会いたい。話がしたい。
それが澄子の願いなのだから、墨子はそれを叶えるまでだ。
「……」
いろいろと考えを巡らせつつ歩くうち、目的の場所に到着した。
迷路のような路地裏を攻略した者のみが訪れることを許される、知る人ぞ知る――というか、ごく少数の人間にしか認知されていないという、極端に知名度の低い居酒屋『みなせ』。
「あ、いらっしゃーい墨子ちゃーん」
がらがらと大きな音を立てる戸を引き、暖簾をくぐって店内へ入る。
すると、厨房にいた男が手をひらひらと振りながら、そんな台詞で私を出迎えた。
一応はここが飲食店であるという自覚はあるらしく、その赤茶色の髪を、雑にではあるが後ろでひとつにくくっている中年男。彼こそがこの寂れた居酒屋の店主、水無瀬彗である。
元よりのんびりとした性格の男だけれど、その垂れ目がちな目元がのんびりさに拍車をかけていて、緊張感の欠片もない雰囲気がだだ漏れになっている感はある。が、本人はそれを気にしているので、敢えて言及はしない。
そんな彼が経営している『みなせ』は、カウンター六席と二人用テーブルが二卓、奥には小上がり席が二卓というこじんまりした造りになっている。客がいるほうが珍しいという『みなせ』は、それ故に店主の水無瀬一人の状態が基本という、脱サラしたおっさんが趣味でやっている感満載な店なのだが、今日はどうやらお客が入っていたようだった。
私を出迎えた水無瀬の言葉につられて、先客もこちらを向く。
「意外と早かったのだな。待っていたぞ!」
カウンター席で水無瀬と話していたらしい先客は、そう言って年相応の少女らしい笑顔を浮かべた。
昼間は三編みのだろう、癖のついた黒髪。オーバーサイズの白いトレーナーに、スキニーのジーンズという私服に身を包んだ少女。彼女は確か高校二年生で、居酒屋とは縁のない年齢のはず。しかし現状、常連客以上に常連客然としてそこに居たのだった。
「どうしてここがわかったのよ、憶屠……」
自分でも顔が引きつるのがわかる。
それほど、この少女がこの場所に居るという現実を信じたくなかった。
この場所までの道のりは、頑なに教えなかったはずなのに。
尾行されていないことを再三確認した上で、ここへ来たはずなのに。
どうしてこの子はここに居る?
「まあまあ墨子ちゃん、とりあえずこっち来て座りなよー」
水無瀬はお気楽な調子でそう言いつつ、手早く少女の隣に皿と箸、それとお冷を用意していく。
彼の言う通り、入り口で立ち往生していてもなんの解決にもならない。肩を竦ませ、とりあえずは先客の隣に座ることにした。
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