11.古代椎良
視界に飛び込んできたのは、予想とは真逆の光景だった。
片づけられていた。
綺麗さっぱり、完璧に。
放課後の勉強会を断ってまで、早く家へ帰って来た。ため息をつきながらも、『家族』という体裁を保つ為、一人であの惨状を片づける覚悟で帰って来た。
だから本来であれば、俺はここで喜ぶべきなんだろう。
片づけの手間が省けた、これで宿題に本腰入れられる。ありがとう、母さん――と。
だけど。
だけど俺は、その片づけられたリビングを見て、今朝以上に血の気が引いていた。
「そんな、嘘だろ……?」
不意に発した声は、笑ってしまうくらい無様に震えていた。
しかし、そうなってしまうのも無理はない。
まさか、寸分違わず元通りになっているだなんて、一体誰が予想する?
派手な傷がついていた絵画も、脚の折られた間接照明も、床に飛び散っていた花も、ずたずたに皮を引き裂かれたマッサージチェアーも、ばらばらになった陶器の置物も、真っ二つに割れた花瓶も、泥まみれになっていたソファーも、綿の飛び出たクッションも、破られたカーテンも、ぐちゃぐちゃになっていたカーペットも、画面にヒビの入ったテレビも、破かれた新聞も雑誌も――全部、元通りになっていた。
ひっくり返されていた家具も、完璧に元の位置に収まっている。
これは、どう捉えるべき事象なのだろう。
リビングの入口に立ち尽くしたまま、俺は考える。
いや、脚が動かなかったと言ったほうが正しい。
徹底的に復元されたリビングが恐ろしくて、それ以上先へは踏み入られなかった。
まだ俺はなにもしていない。これをやったのは、母さんに他ならない。
しかし、理由がわからない。
強盗の被害に遭った当日に、ここまでする意味ってなんだ?
これじゃあまるで、事実の上書きだ。
昨日も普通の一日だったと強引に説得されているような、気味悪い感覚に陥る。
「……」
全て元通りのはずなのに、ひどく居心地が悪かった。新品同様に修復された家具達は、奇妙な威圧感をもって俺に迫ってきているような気分だった。
壊れたものは要らないから捨てる。
使えなくなったものは要らないから捨てる。
要らないものは要らないから捨てるのだ。そこにはなんの矛盾もない。
しかしそれ以外にもなにか嫌な感じがして、少しだけ目が眩んだ。
「……あれ?」
そういえば、なにかを忘れているような気がする。
母さんにとって必要なものが全て元通りになったリビングに圧倒されながら、忘れているなにかを思い出そうとする。
とても大事な、他のなによりも優先して行わなければならないことが、俺にはあった、はずなのに。
「――ねえ。邪魔。どいて」
後ろから、母さんの声がした。
振り向くと、そこには気持ち化粧をしたジャージ姿の母さんがあった。口調こそいつも通りだけれど、俺を見る目は朝と同様、若干の怯えが混じっている。
近所のスーパーへ買い物に行ってきたのか、その手には買い物袋が握られていた。母さん一人で食べるにしてはかなりの量の食材が入っているようだったが、それは母さんの隣に立つもう一人を見れば理由は明らかだった。
「こんばんは。椎良君だね?」
「……どうも」
母さん以上に大量の荷物を抱えていた、もう一人。
それは、知らない男の人だった。
母さんは今、小井川さんと付き合っていると思っていたけど……? そういえば昨日、母さんは大量に酒を飲んでいたし、別れてしまったのだろうか。いや、それにしたって次を見つけるのが早過ぎる。
「そんなところでなにしてるの。用がないなら自分の部屋に行きなさい」
「あ、うん、ごめん」
母さんに言われ、二人をリビングへ通す為に道を開ける。
「今日は本当にありがとうございました。おかげで助かっちゃった」
「いやいや、あれくらいは大したことないさ」
そんな会話をしながら、母さんが先にリビングへ入り、暖房をつけた。招かれた男の人も、続いて入っていく。
「あー、椎良君。ちょっと良いかな」
しかし男の人はなにを思ったのか、急に振り返り、声をかけてきた。
俺よりも若干背の高いその人は、少しだけ視線を落としてこちらを見る。
「は? あ、いや、えっと……なんですか……?」
見たところ、四十代前半くらいの眼鏡を掛けたおじさんだ。ジャージ姿の母さんとは反対にスーツを着ているが、仕事終わりに母さんのところへ来たのだろうか。
「初めまして、椎良君。おれの名前は小井川逸人と言う。こんなタイミングで言うのもなんだが、君のお母さん――彩未亜さんとお付き合いさせてもらっている者だ」
しかしおじさんは、予想に反して自己紹介をしたのだった。
「え?」
自分でも、眉間にしわが寄るのがわかる。
このおじさんは、一体なにを言っているのだろうか。
俺は昨日、既に小井川さんと名乗る男の人に会っている。この人は、昨日エントランス前で出会った小井川さんとは全くの別人だ。だというのにどうして、この人も自らを小井川だと名乗るのだろう。
「これ」
そう言って渡されたのは、『小井川逸人』と書かれた名刺。
反射的にそれを受け取り、見る。会社名、所属、肩書き、名前、連絡先。どこをどう見ても、シンプルで一般的な名刺だ。
「会社の名刺で申し訳ないが、裏におれの私用の電話番号を書いておいた。気が向いたら、そこに連絡してくれ。おれで良ければ、相談に乗る」
わからない。
一体どちらが嘘をついている?
どうして嘘をつく必要がある?
「どうかしたのか?」
名刺を受け取ったまま硬直していた俺に、小井川さんを名乗るおじさんは、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「あ、いや……」
咄嗟に一歩引いて距離を取りながら、必死に頭を働かせる。
どうすれば、この人が『小井川逸人』だと証明させられるのか。
「……――う」
「うん?」
「免許証、見せてもらえませんか」
即座に思い浮かんだ身元証明書と言えば、それしかなかった。
突然の要求に、おじさんは少し不思議そうな表情をしつつ、それでも尻ポケットから財布を取り出し、運転免許証を見せてくれた。
「これで良いか?」
「……はい。ありがとうございます……」
そこに写されている証明写真は、確かに今俺の目の前にいるおじさんの顔だった。
こうなってしまえば、この人こそが『小井川逸人』なのだと認めざるを得ない。免許証が偽造されている可能性がないわけではないが、たかが高校生一人を騙すのに、そこまで手の込んだことはしないだろう。
しかし根本の問題は解決していない。
この人こそが小井川さんだと言うのなら、昨日の夕方に会った男の人は、一体誰だったんだ?
どうして俺と母さんのことを知っていて、どうして俺に声をかけてきた?
――お母さんの言うことは、きちんと聞くんだよ。
別れ際に言われた言葉が、妙に引っ掛かる。
「ねえ椎良」
混乱状態に陥りかけた俺に、母さんが呼びかける。
「宿題とか、やるべきことがあるんじゃないの? さっさと部屋に行ったら?」
小井川さんがいるからか、比較的優しい口調だ。
「あ……うん、わかった」
そう言われてしまえば立つ瀬もない。
リビングに背を向け、素直に自分の部屋を目指した、そのとき。
「――本当にあの子がやったのか?」
リビングのドアが閉まる直前、小井川さんがそう言ったのが、確かに聞こえた。
慌てて振り返るも、ドアはもう閉まっていて、その話の続きを聞くことは叶わなかった。
俺が、なにをしたって?
聞き返したい衝動に駆られたが、しかしリビングに戻る気にはなれなかった。
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