10.古代椎良
「……はあ」
帰り道、歩きながらにため息が出た。
吐いた息は一瞬だけ俺の視界を白く覆い、霧散していく。本気で気が滅入ってくるから、極力ため息はつきたくない派なのだけれど、今日ばかりはどうしようもない。ため息だってつきたくもなる。こんな気分になる原因は、遅刻ぎりぎりの登校になった理由であり、放課後の勉強会を断らざるを得ない状態にした理由でもあった。
それは、今朝のできごとである。
いつも通り、アラームをセットしている六時半に目を覚ました。
そこでまず、血まみれの枕を目にして驚き、手当てだったりなんだりがあったのだが、問題はそれからだ。
リビングへ行くと、そこは泥棒にでも入られたかの如く荒らされていたのだ。
テーブルも椅子も花瓶も花もカレンダーも食器棚も皿もマグカップもソファーもクッションもカーテンもカーペットもテレビも新聞も雑誌も照明も――なにもかもが滅茶苦茶だった。ぐちゃぐちゃに荒らされたリビングの窓は開け放たれていて、朝の冷たい空気がびゅうびゅうと音を立てて入ってくる。
泥棒ではなく強盗の類なんだと直感した。
「か、母さん――」
呆然と。愕然と。唖然と。
夢でもみているかのように、母さんはただただリビングの惨状を見つめ、座り込んでいた。
俺はそんな母さんに駆け寄り、無事を確認しようとその肩に触れる。
しかし母さんは俺の手を反射的に叩き落とし、それから、ようやく俺を見たのだった。
「――――」
母さんは俺を見てぎょっとしていた。恐らく、頬の傷に驚いたのだろう。俺が絆創膏を貼ったときも、まだだくだくと血が流れていた。きっとこのときも、絆創膏にはじっとりと血が滲んでいたのだと思う。
「この傷なら、大丈夫。強盗にやられたんじゃないよ」
俺はそれだけ言って、リビングを見回した。
派手に荒らされているが、窓ガラスが割られていないのは不幸中の幸いと言えよう。この時期に窓を割られては、堪ったものじゃない。
俺がリビングに来るまでこの惨劇に気がつかなかった以上、強盗はリビングだけに侵入したと考えるべきだ。母さんの部屋はリビングに直結しているし、もしかしたら強盗と鉢合わせてしまったのかもしれない。
「母さん、大丈夫?」
今度は母さんに触れることはせず、それだけ訊いた。
「……」
それでも母さんは、俺の質問に答えてくれない。まるでなにかに怯えているかのように、肩を震わせるだけだ。或いは、開け放たれた窓から入って来る冷気によって、すっかり身体が冷えてしまった所為かもしれない。
「警察に、電話するね」
こういうときこそ、警察の出番である。
古代家に固定電話はない。母さんと俺、それぞれで携帯電話を持っていて、それで事足りているからだ。だから俺は一度リビングを離れ、自分の部屋からケータイを取って来ようとしたのだが。
「待って。待ちなさい、椎良」
と。
ここでようやく母さんが声を発したのだった。
母さんは、俺と目を合わせずに言う。
「警察には連絡しないで」
「だけど」
「なにも盗られてないから」
反論しようとする俺に、母さんはたたみ掛けるように言うのだった。
これだけの荒らされようでなにも盗まれていないというのは、いささか奇妙な話だ。それならなんの為に、こんな無駄にセキュリティの高いマンションへと押し入ったのだろう。かなりのリスクを冒してまで不法侵入し、部屋を荒らすだけでは割に合わないと思うのだが。
仮になにも盗られていないとしても、念の為に一度は警察に来てもらったほうが良い。俺はそう主張し続けたのだが、最終的に、母さんの頑なな意見に負けたのだった。
「……わかった」
その後。
俺は簡単にリビングの掃除をし、朝ご飯を食べて、学校へ向かったのだった。
本当を言えば、今日は学校を休んで、この荒らされたリビングの復元に努めたかった。なんだかんだで男手が必要になるだろうと思ったし、実際、八時頃まで俺は大活躍だった。ひっくり返された家具を、ひらすら元に戻し続けたのだ。帰宅部とは言え、バイトで鍛えた筋力が、ここにきて役に立ったという感じである。俺が出発する頃になっても母さんは身支度もせずに家に居たけれど、あの後、どうしたのだろう。
母さんにとって――そして俺にとっても――今は家なんて、寝に帰る為の場所でしかない。愛着なんてものは、果てなくゼロに近いだろう。帰るのが楽しみだった家なんて、あの日本家屋くらいのものだ。
それでも、『家族』それ自体がなくなるのは嫌だ。
『家族』がなくなってしまえば、俺は一人ぼっちになってしまう。
母さんに片づける気がないのであれば、それでも良い。俺が一人で元通りにすれば良いだけのことだ。そうやって、せめて体裁だけでも『家族』を保っていたかった。
帰ったら、どこから片づけたものだろうかと考えながら、マンションのエントランスに入ってロックを解除する。
全力で片づけをするとは言っても、今回の件で、半数以上の家具は捨てられるだろう。使い物にならなくなるほど壊されたものはなかったが、傷がついたものはあった。
きっと母さんは、それら全てを廃棄する。俺がどれだけ完璧に復元したところで、母さんにとって不必要になったものは捨てられるのだ。躊躇いのない性格の母さんのこと、きっと豪快に処分していくだろう。小井川さんとの結婚も近いようだし、なおさらだ。
今までも、そうやっていろんなものが捨てられてきた。
引っ越しの度、多くの思い出が捨てられていた。
邪魔だから、必要ないからと、なんの躊躇いもなく。
「ただいま」
しかし強盗は、どうやって古代家に侵入したのだろうか。家賃が家賃なだけにセキュリティは万全のはずだが、玄関の鍵をかけ忘れたわけでもなければ、無理矢理にこじ開けられた形跡もなかった。窓は開け放たれてはいたが、割られてはいない。管理人から、不審者が侵入したというような話も聞かない。
謎に拍車がかかる。
侵入経路が、まるで思い浮かばない。
経路と言えば、もうひとつ気になることがあった。
それは、昨日の夜、俺はいつ自分の部屋に戻ったのかということだ。母さんの話に衝撃を受け過ぎて、その後の記憶が曖昧になってしまっている。それにしたって、頬に傷を作ったことも覚えていないなんて、我ながら動揺し過ぎではないだろうか。
いつかはこうなると、俺は知っていたはずなのに。
「え」
リビングへと繋がるドアを開け、俺は絶句した。
強盗によって荒らされたリビング。
徹底的に破壊し尽くされたリビング。
「なんだよ、これ……」
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