6.伊神澄子
翌日。午前八時頃。
出勤してきた社員により、研究室で気絶している状態でわたしと井東さんは発見されました。
何者かが暴れ回った形跡や、そこで気絶していた人間が二人もいたことから、無論、この件は警察沙汰になりました。
しかし証拠らしい証拠はなにも見つからず、警察は強盗未遂として片づけたのでした。
その見解に、わたしは反論などしません。むしろ、前後の記憶がないと虚偽の証言すらしました。だって、あの夜のことを話したとして、警察が信じてくれるわけがありません。あんな現実離れした話、わたしもまだ信じきれないのですから。
とは言え、わたしが虚偽の証言をしたところで、井東さんが本当のことを話せば意味はありません。ですが、井東さんはあれから一週間ほど意識が戻らず、ようやく目を覚ましたと聞いていの一番にお見舞いに行っても、
「ごめんなあ、澄子ちゃん。どうしてだかあの日のこと、さっぱり覚えてないんだわ。なにがあったか、澄子ちゃんは覚えてるかい?」
と言われるだけの結果となりました。
井東さんの軽度の記憶障害と、わたしの黙秘。そして伊神製薬から被害届を出なかったことにより、捜査は打ち切られたのでした。
そして。
桜介さんの失踪も似たり寄ったりに、うやむやになって風化していきました。一切の手掛かりを残さない雲隠れに、為す術などなかったのです。
「これから、どうすれば良いんだろう……」
桜介さんの裏切り。
失踪。
あれから季節は移ろい春になっても、わたしはなにもする気になれず、部屋で一人、逡巡していました。
あの夜の一件は、新聞の片隅に小さく報じられていただけでした。記事には、社員二名が気を失った状態で発見されたとだけ。
だから桜介さんは、わたしが殺されていないと知っているはずです。
井東さんがわたしを殺すことに失敗した、ということも。
スクラヴが桜介さんにとって完璧なものではないと、あの一件で証明されたも同然です。
だから、もしかしたら。
もしかしたら桜介さんが戻って来るのではないかと、期待していました。
いいえ、わかっています。
そんなのはわたしの願望でしかないことなんて。
わたしがどれだけ甲斐甲斐しく桜介さんを待っていても、桜介さんは二度とここへは戻ってこないでしょう。
だってわたしは――伊神製薬は、彼にとってはもう用済みなのですから。
全てが嘘で、偽りでしかなかった桜介さんとの時間。
桜介さんは、一体どんな気持ちで過ごしていたのでしょうか。
「大嫌い」なわたしと、なにを考えながら話していたのでしょうか。
今となっては、なにもわかりはしません。
わたしは桜介さんのことを、なにひとつ知り得てなどいなかったのです。
それが、ひどく悔しい。
「……」
わたしがこうして部屋に閉じこもっている間にも、スクラヴが使われたと思われる事件は発生していました。『叶え人』なんて都市伝説として語られるようになるまで、そう時間はかからなかったと思います。死者が出るような事件にまで発展していないことだけが、不幸中の幸いでした。
水城市限定の都市伝説『叶え人』。
桜介さんがこの街の人を利用して、実験を繰り返しているのは明白でした。
わたしがこうしている間にも、きっと桜介さんは実験台の選定を行っているのでしょう。或いは、もう実験中なのかもわかりません。
桜介さんが、悪者になっていく。
あれだけの裏切りを受けても、わたしは桜介さんを嫌いになれずにいました。
だから、彼が罪を犯していくのは、身がよじれるほどの思いがして――そこでようやく、待っているだけじゃ駄目なんだと気づいたのでした。
桜介さんと会いたい。会ってもう一度、冷静に話し合いたい。
そして、こんなことは終わりにしてもらおう。
それが、わたしの願いでした。
その為には、まず桜介さんを探さなければいけません。
手掛かりとなるのは、他ならない『叶え人』です。曰く、魔法の薬をくれるという男がいる。その男こそ、桜介さんなのでしょう。
それなら、それらしい事件の関係者に話を聞けば、桜介さんの足取りを追うことができます。そう考えたのですが、わたしの考えは浅かったようでした。
事件関係者は、皆一様に口を閉ざしたのです。
考えてみれば当然です。わたしだってそうしたではありませんか。
であれば、方法を変えるだけ。
そう、わたしも事件関係者になってしまえば良いのです。
『叶え人』が絡む事件を解決するかたちで関われば、それも立派な事件関係者です。
幸い、手元にはスクラヴとそのワクチンがあり、その成分を解析して量産することくらいであれば、わたしでも可能でした。
叶え人となった人を探し出してワクチンを投与し、事件を早期解決、或いは未然に防ぐ。
この方法であれば、桜介さんの足取りを追うこともでき、さらには妨害行為にもなり得ます。理由はどうあれ、それで桜介さんのほうからわたしに会いに来てくれたら、それ以上に嬉しいことはありません。そう簡単にはいくはずはないと、わかっていても。
けれどこの方法には、致命的な問題がありました。
それは、わたしの力では叶え人化した人に対抗できないということ。
井東さんがまさにそうでしたが、あのとき、わたしは反撃らしい反撃もできず、ほとんど偶然によって助かっただけでした。
叶え人に対抗し得るのは、結局のところ、叶え人だけ。
であれば、わたしが取れる最良の策は、わたし自身も叶え人となることでした。
同じ土俵に上がってさえしまえば、対抗し、圧倒する可能性は格段に向上します。
覚悟を決めてからの行動は、自分でも驚くほどに早いものでした。
まず取りかかったのは、スクラヴの改良です。
人間の理性を吹き飛ばしてしまう薬――スクラヴ。
それをそのまま流用し、いつ終わるかわからない桜介さんの捜索になんて、恐ろしくて使えるはずがありません。
改良の為の解析で、スクラヴはわたしの予想よりはるかに怖い薬だとわかっても、わたしの手が止まることはありませんでした。そこで立ち止まってしまえば、桜介さんと再会できる可能性はゼロになってしまうのですから。
そうして季節が秋へと移ろう頃、遂に改良版は完成します。
この頃になると、『叶え人』は水城市内で知らない者は居ないと言わんばかりの広まりを見せていました。それこそが、桜介さんが水城市内で実験を続けているという、なによりの証拠です。
だからわたしも、ようやく計画を実行します。
桜介さんに会う為に。
桜介さんと話をして、こんなことを止めてもらう為に。
「……」
完全に日が落ちた頃、わたしは一人、部屋にある全身鏡の前に立ちました。
鏡に映ったわたしは、普段とは全く違う装いをしているくせして、驚くほどに暗い表情をしています。そんな顔をして片手に小瓶を持っているのですから、傍から見れば、自殺志願者と思われても仕方ありません。
無論、自殺などするつもりはありません。
これで弱いわたしを封じ込めて、より確実に桜介さんの居所を探し出すのです。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
心の中で三回、自分にそう言い聞かせました。
スクラヴは、言うなれば強力な暗示薬です。
極端なまでに理性を吹き飛ばし、暗示にかけることで、無理矢理に服従させる薬です。洗脳と言っても良いかもしれません。ワクチンを接種しなければ精神状態に異常を来し、死ぬよりも残酷な結末を迎えるケースも、少なからず発生していました。
一方でわたしが改良したスクラヴは、投与量を調整しさえすれば、理性を吹き飛ばすことなく暗示にかけることができ、時間経過によって自然に中和します。勿論、投与量によってはワクチンが必要となりますが。
欲を言えば、瞳の色素減退作用をなくしたいところでしたが、残念ながら、そこまでは手が回りませんでした。あまりに独特の仕様で、わたしではどうすることもできなかったのです。
「……」
安全装置は多めに設けました。
よっぽどの事態に陥らない限り、死に至るようなことはないはずです。
最後にもう一度、今度は声に出して「大丈夫」と自分自身に言い聞かせてから、わたしは用意していたスクラヴを口に含みました。
口の中には、薬物特有の味が広がります。決して美味しいものではありません。それでも自分で設定した量を全て飲み込み、わたしは鏡に映るわたしに向かいます。
「桜介さんを見つけたい。桜介さんと、話がしたい。その為にわたしは強くなりたい。わたしは、強く、在りたい」
途端、強い眩暈に襲われましたが、すぐに治まります。
恐らく、眩暈の程度は摂取量に関係しているのでしょう。
「貴女は伊神澄子じゃない」
鏡の中に居るわたしに、わたしは言い聞かせます。
「貴女の名前は、墨子」
見れば、その瞳の色は綺麗な青色になっていました。
墨子。
それが、わたしの願いを叶える為に作った、もう一人のわたしの名前です。
これで、わたしの長ったらしい独白はお終い。
この日以降の墨子の活躍については、『闇子さん』なんて都市伝説がほとんど全てを物語っているでしょう。
「弱くて役立たずの澄子の代わりに、お願いするわね――墨子」
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