第9話
馬車の旅は、四日目に入っていた。
王都を出てから、街道は徐々に荒れ、人家の数も減っていく。三日目の宿で会った旅人は、辺境に向かうと聞くと露骨に顔をしかめた。「物好きですな」とだけ呟いて、それ以上は何も語らなかった。
窓の外には、新緑の山々が連なっている。風は冷たく、空はどこまでも澄んでいた。
アネットは膝の上に母の手記を広げ、毒草の項を読み返していた。万一の備えだった。御者が腰の剣だけでは心許ないと、出立前から考えていた通りに。
その懸念が、現実になった。
馬車が、急に大きく揺れた。
御者が叫ぶ。
「お嬢様、お伏せください! 野盗です!」
アネットは身を低くした。木立の影から、五、六人ほどの男たちが躍り出るのが、窓の隙間から見えた。汚れた革鎧、抜き身の長剣。馬の手綱が引かれ、車輪が軋んで停まった。
「金目のものを置いていけ! 命までは取らねえ!」
御者が懐の短剣を抜く。だが多勢に無勢だった。最初の打ち合いで、御者は腕に深い傷を負って馬車の扉に倒れ込んだ。アネットは咄嗟に彼を引きずり込み、扉を内側から閉めた。
「お嬢様、お逃げを……!」
「動かないで」
アネットは、革袋から小瓶を二本取り出した。
乾燥させた粉末。母の手記にあった、目と気道を激しく刺激する植物の混合粉。直接の殺傷力はないが、相手の動きを止めるだけなら、これで十分だ。
扉が、外から蹴破られそうになっていた。アネットは栓を抜き、扉が開いた瞬間、躊躇なく粉を投じた。
悲鳴が上がった。
間近にいた野盗二人が、目を押さえてのたうち回る。アネットは御者から短剣を借り、震える手で構えた。剣の使い方など知らない。それでも、ここで膝をつくわけにはいかなかった。
残りの三人が、激昂して馬車を取り囲む。
その時だった。
風を切る、低い唸りのような音。
馬車の天蓋越しに、巨大な影が降ってきた。一閃。剣がひらめき、野盗の一人が地に伏した。続けて二の太刀、三の太刀。声を上げる暇もなく、男たちは次々と崩れ落ちていく。
すべてが終わるまで、十秒もかからなかった。
馬車の扉ごしに、アネットはその姿を仰ぎ見た。
六尺をゆうに超す巨躯。漆黒の鎧の隙間から覗く首筋には、わずかに鱗のようなものが見えた。剣の血を払うその仕草には、無駄が一切ない。
男はゆっくりと振り返り、馬車を見下ろした。
濃い影の落ちた顔の中で、瞳だけが、燃え盛る炭のような赤色をしていた。
アネットは息をのんだ。怖いとは思わなかった。ただ、この世のものではないような迫力に、声が出なかった。
「礼は要らん」
低い、地鳴りのような声だった。
「俺の領内で騒ぎを起こすな。それだけだ」
領内――その言葉に、アネットは思わず背筋を伸ばした。
「あの、お助けくださり、ありがとう存じます。この御方は、御領主様で……」
「名乗るほどのことはない」
男はぴしゃりと遮った。アネットの装いを、上から下までざっと一瞥する。冷たい目だった。中央訛りの娘、貴族の馬車。それ以上を語る気はないと、目が告げていた。
男はくるりと踵を返し、街道脇の森へと消えていった。馬の蹄の音さえしなかった。
残されたのは、五人の倒れた野盗と、震えている御者と、手の中に粉の小瓶を握りしめたアネットだけだった。
「お嬢様……今のお方、もしや」
御者が、青ざめた顔で呟く。
「ヴォルクハイム辺境伯領のお方かもしれません。あの竜人特有の鱗。あの土地の領主一族の血筋にしか、現れぬと聞いております」
アネットは、まだ立ち去った方角を見つめていた。
頬に、冷たい汗が伝う。けれど不思議なことに、胸の奥には、ほのかな安堵のような熱が、ひとつ灯っていた。




