第10話
ヴォルクハイムの街は、王都とは何もかもが違っていた。
石畳は荒く、敷き直されることもなく波打っている。建物は木造と石造りが混在し、屋根はどれも厚い板葺き。冬の雪に耐えるためだろう。すれ違う人々は皆、武具を帯びるか、剣の柄に手をかけて歩いていた。冒険者、傭兵、隊商の警護人。中央なら一目で警戒される風体の者が、この街では当たり前の住人らしい。
アネットは馬車を降り、街の中心に近い宿屋の前で深く息を吸った。
空気は乾いていて、土と革と、煮込み料理の匂いがする。中央のように香水や白粉の匂いはどこにもない。これが辺境の匂いだと、頭ではなく、肌で覚えた。
「お嬢様、この先の物件をご案内します」
御者が手綱を取って、アネットを路地の奥へと導いた。父の名で先に話を通してあった、空き家の一軒。中央から流れてきた老薬師が、年老いて街を去ったあと、誰も借り手がつかなかった家だという。
粗末な家だった。
二階建ての石造りで、一階は店舗、二階が住居になっている。窓ガラスは数枚割れ、棚は埃をかぶり、土間には乾いた薬草の屑がそのまま残っていた。
けれど、奥の小さな庭には、井戸があった。日当たりも、悪くない。土を掬って指でこすると、思ったよりも肥沃な、黒々とした土が出てきた。薬草が育つ。それが分かれば、十分だった。
「ここで、いいわ」
アネットは振り返り、御者に告げた。
「父の手紙を、辺境伯のお城へ届けてくださる? あなたは届けたら、王都へ戻って」
「お嬢様、お一人で大丈夫でしょうか」
「平気よ。ありがとう、本当に」
御者は、長い間アネットの顔を見つめていた。やがて深く一礼し、馬車に戻っていった。最後の屋敷の使いが、こうして去っていく。
アネットは扉を閉め、初めて、たった一人になった。
翌日から、片付けが始まった。
窓を磨き、床を洗い、棚を組み直す。割れたガラスは安価な板で塞ぎ、棚の埃を払って、母の種子を並べた。庭の隅を耕し、まずは育ちの早い苦草と解毒花の苗を植えた。手のひらに豆ができ、爪の間が黒くなり、夜には腰が痛んで眠れなかった。
それでも、不思議と、やめたいとは思わなかった。
一週間ほどで、店の体裁が整った。アネットは木の板に、自分の手で文字を彫った。
《薬草と治療 アネット》
看板を扉の上に打ちつけたとき、通りがかりの女が、足を止めて見ていた。中央訛りで何かを言ったらしいアネットの声に、女は怪訝な顔をして、何も買わずに去っていった。
その日、客は、来なかった。
翌日も、来なかった。
三日目、街の井戸端で、女たちがアネットを指差して囁き合っていた。中央から来た訳ありの女、と言われているのは、表情から察しがついた。
夜、アネットは二階の小さな寝台に腰かけ、ろうそくの灯りで母の手記を読んでいた。
窓の外は深い闇で、星だけが冴えていた。風が屋根を撫で、遠くで犬が吠えている。中央の絹のシーツも、銀の食器も、温室の薔薇の香りも、何もない。
あるのは、母の手記と、種と、自分の手。
それだけだった。
「お母様」
アネットは小さく呟いた。
「私、ここからやり直します」
声は、暗い部屋に吸い込まれて消えた。返事はない。けれどアネットは、母が確かに、隣で頷いてくれているような気がした。
明日も、客は来ないかもしれない。明後日も、その次の日も。それでもいい。母の薬を、母が信じた知識を、ここで一人、芽吹かせていく。
いずれ、誰かが扉を叩く。
その時のために、私は、私の薬を磨き続ける。
ろうそくの炎が、揺れて、まっすぐに伸びた。アネットは手記を閉じ、静かに灯を吹き消した。




