第11話
開店の朝、アネットは扉を開け放った。
春の日射しがまっすぐに差し込み、磨いた棚を金色に染める。整然と並んだ薬瓶、籠に積んだ乾燥薬草、小さく刈り揃えた苗。アネットは前掛けを締め直し、入口の前に水を撒いた。
準備は、整っている。
あとは、客が来るのを、待つだけだ。
午前中、扉のそばを通る人は、それなりにいた。
冒険者らしい男たちが、剣帯を直しながら早足に去っていく。買い物籠を抱えた女たちが、店先を一瞥し、何かを言い合いながら通り過ぎる。子供が一人、扉の前で立ち止まり、看板を見上げて、すぐに走り去っていった。
誰一人、敷居をまたがなかった。
昼過ぎには、アネットは小さな椅子に腰かけて、ぼんやりと表通りを眺めていた。落ち込んではいなかった。中央の薬商人ですら、新店は半年は閑古鳥が鳴くと聞く。辺境で、よそ者の女が、初日から繁盛するわけがない。
頭では分かっている。
それでも、自分の作った薬が、誰の手にも渡らないというのは、思ったより寂しいものだった。
午後、店の前で、子供の泣き声が上がった。
慌てて顔を上げると、五、六歳ほどの男の子が、敷石の上で膝を抱えて泣いている。母親らしき女が駆け寄り、子供の泣きじゃくる足を見て、青ざめた。
膝小僧が、石で深く擦りむけて、血が流れていた。子供にとっては、相当な出血量だった。
「ジャン、動かないで……ああ、布、布をどこかで」
アネットは、ほとんど考えずに動いていた。
店の中から清潔な布、緑色の軟膏の小瓶、そして乾燥させた解毒花の葉を一枚、手に取って外へ出た。母親が驚いて顔を上げる。
「失礼します」
アネットは静かに告げて、子供の前に膝をついた。布で軽く血を拭い、解毒花の葉を傷口に当て、その上に軟膏を薄く塗る。母の手記の、最も基本的な創傷処置だった。
子供は最初、見知らぬ女の指に身をすくませた。けれど葉の冷たさと軟膏の匂いに気を取られ、いつのまにか泣き止んでいた。
「不思議だ……痛くない」
子供がぽつりと呟いた。母親も目を瞠った。
「血が、もう止まってる……」
「解毒花の葉に、自然に血を止める作用があるのです。三日もすれば、傷口は塞がります。お湯で軽く拭いて、また葉を貼り替えてください。残りの葉は、これを」
アネットは、紙に包んだ予備の葉を、母親に手渡した。
女は、しばらく葉の包みを見つめていた。
それから、慌ててエプロンの隠しから、銅貨を数枚取り出した。
「お代を、いくらお取りに……?」
「いえ、初めての方には、結構です」
「そんな、それでは」
女は本当に困ったように、銅貨を握りしめた。アネットは少し考え、微笑んだ。
「では、銅貨二枚で。このあたりの相場が分かりませんから、それで足りなければ、また」
女は、ほっとした顔で銅貨を二枚、アネットの手に置いた。
ひんやりとした、小さな金属の重み。アネットの手の中で、それは王都のどんな宝石よりも、重く、温かかった。
「何かあったら、また来ます。本当に、ありがとうございます」
母親は、子供の手を引いて何度も振り返りながら帰っていった。
アネットはしばらく、扉の前に立ち尽くしていた。
夜。
二階に上がり、ろうそくを灯したアネットは、机の上に銅貨二枚を並べた。
一日の売上、銅貨二枚。
中央でなら、紅茶一杯にも足りない金額だ。けれどそれは、辺境の街で、よそ者の薬師が、確かに誰かを助けて手にした、最初の対価だった。
アネットは銅貨を指でそっと撫でた。それから、小さく声を上げて、笑った。
ろうそくの炎が、揺れて、彼女の頬を赤く染めていた。




