第8話
馬車で屋敷に戻ると、すでに使用人たちは事の次第を知っていた。
誰もアネットの目を見ようとせず、廊下の脇に身を寄せて道を譲る。長く仕えた執事だけが、扉の前で深く頭を下げた。
「お嬢様、お部屋にお荷物の支度をしてございます」
「ありがとう」
アネットは短く答え、自室へ向かった。鏡の前に立ち、ドレスから旅装に着替える。何を持っていけるかと、心の中で品物を並べた。
貴金属はいらない。装飾品もいらない。
持っていくのは、母の研究記録、薬草の種、乾燥させた苦草と解毒花、調合のための小さな乳鉢と天秤。それから、当座の銀貨を少しだけ。それ以外は、すべて置いていく。
追放される身に、伯爵令嬢としての荷物は重すぎる。これからは、薬を扱う一人の女として、最低限の道具だけがあればいい。
アネットが革袋に種子の包みを詰め終えた、そのとき。
部屋の扉が、激しく叩かれた。
「アネット――」
息を切らせた父の声だった。アネットが扉を開ける前に、父は転がるように部屋へ入ってきた。
夜会の正装のまま、白髪の混じった髪は乱れ、目は赤かった。アネットは思わず、駆け寄った。
「お父様」
「すまない……アネット、すまない」
父はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。広い肩が震えている。アネットはどう声をかければよいか分からず、しばし父の前に佇んだ。
「私の力では、どうにも……あの場で抗えば、家ごと潰された。お前を、守りきれなかった」
「お父様」
アネットは床に膝を折り、父の手をそっと取った。皺の刻まれた、温かい手だった。
「私は、お父様を恨んでなどおりません」
父は嗚咽をこらえ、何度も頷いた。やがて懐から、革紐で結わえた包みを取り出した。
「これを、持っていけ」
包みは、ずっしりと重かった。中身を察するに、相当な額の金貨だ。それから一通の封書。蝋封には、見慣れぬ家紋が押してあった。
「ヴォルクハイム辺境伯――ヴォルク家の紋だ」
父は、声を絞り出すように告げた。
「先代辺境伯と私は、若い頃の戦友でな。代替わりしてもう十数年経つが、息子のガルシア殿に、私の名で先触れの手紙を送ってある。お前のことを、よろしく頼む、と」
アネットは目を見開いた。準備していたのだ。父は、いつか娘の身に何かが降りかかるかもしれないと、密かに、ずっと前から備えていた。
「辺境ならば、中央の力は届きにくい。あの土地の領主は、王家にすら容易には屈しない気骨ある一族だ。お前を、必ず守ってくれよう」
「お父様……」
「私のことは案じるな。お前が遺してくれた『滋養剤』のおかげで、咳もすっかり止まった。今の私はお前が思うより、ずっと頑丈だ」
父は不器用に微笑んでみせた。アネットの目に、ようやく涙が滲んだ。
夜会の広間でも、王太子の前でも、流さなかった涙だった。
「お父様。あの薬は、ただの滋養剤ではございません。いずれ、すべてを手紙にしたためてお送りいたします。お父様だけは、信じてくださると、私は思っております」
「ああ、信じる。娘の言うことだ。私が信じずに、誰が信じる」
父は、アネットを抱き寄せた。
短い、けれど深い抱擁だった。母が亡くなって以来、こうして父に抱かれたのは初めてだったかもしれない。アネットは父の胸に、額を預けた。
夜更け前、裏門にひそかに馬車が回された。
御者は父の私的な使用人で、辺境までの道を心得ているという。アネットは荷を積み、最後に父を振り返って深く礼をした。
「行ってまいります、お父様」
「ああ、行ってこい。生きるんだぞ、アネット」
馬車が動き出す。アネットは窓から、いつまでも手を振る父の姿を見ていた。
屋敷の灯りが、やがて夜の闇に呑まれて、見えなくなった。




