第7話
王太子は、しばし沈黙した。
アネットの問いに答えあぐねたのか。それとも、台本にない言葉を、無視することに決めたのか。やがて彼は、傍らの侍従から一巻の羊皮紙を受け取り、声を張り上げた。
「アネット・モンフォール。本日只今をもって、ヴィルフリート・ベルクマン侯爵子息との婚約を破棄する」
広間が、ざわりと揺れた。
「加えて、モンフォール家の家督継承権を、そなたから剥奪する。さらに、王都への出入りを禁ずる。今宵中に支度を整え、夜が明ける前に、王都を発つこと」
追放。
その語が広間に降りた瞬間、アネットの背後から、父の押し殺した呻きが聞こえた気がした。だが振り返ることはしなかった。今、振り返れば、何かが崩れる。
アネットは、深く、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
顔を上げる。王太子の表情に、わずかな戸惑いが走った。きっと、もっと取り乱すと思っていたのだろう。涙を流し、無実を訴え、慈悲を乞う――そんな見栄えのいい場面を、観客たちは期待していたに違いない。
申し訳ないけれど、その役は演じない。
「ただし、殿下」
アネットは、王太子の目を、まっすぐに見据えた。
「私は、毒など盛っておりません。これだけは、お聞き届けくださいませ」
「申し開きの時はもう過ぎた」
「いいえ、申し開きではございません。お知らせでございます」
ざわめきが、ふたたび止んだ。
「私は何も盛っておりませんが、王都には、確かに毒が満ちております。それが何であるかは、いずれ皆様方が、ご自身の身をもって、お知りになるでしょう」
広間が、しん、と静まり返った。
予言とも、呪いとも取れる言葉。アネットは、それ以上の説明をしなかった。理解できる者だけが、後になって思い出せばいい。
ヴィルフリートが、苛立たしげに口を開いた。
「最後まで、不愉快な娘だ。早々に立ち去れ」
「ええ、立ち去ります」
アネットは、もう一度礼をした。
その視線の端で、リリィの様子を見た。
涙はもう流していなかった。顔は伏せ、唇には、勝者の微笑のような何かが、ほんの一瞬だけ浮かんで消えた。だがアネットの言葉が広間に響いた瞬間、その瞳に冷たい光が宿ったのを、アネットは確かに捉えていた。
気づいたな、と思った。
アネットが、自分の正体に何かしら勘づいていることを。リリィは、それを今、確信した。
だからこそ、追放という処分は、リリィにとっても都合がよかったのだ。殺せば騒ぎになる。だが追放なら、王都から消える。もう手出しはできまい――そう、彼女は思っているはずだ。
甘い、と心の中で呟く。
王都を離れるからこそ、できることもある。リリィの届かない場所で、ゆっくりと毒の解明を進められる。中央の崩壊が始まれば、いずれ皆、解毒を求めて誰かを探す。そのとき、いるのが、自分でなくて誰だろう。
アネットは、踵を返した。
退場のために広間の中央を歩く間、視線という視線が、矢のように降ってきた。
不快なものもあった。憐れむものもあった。中には、わずかに困惑と、共感めいた色を含んだ視線もあった。クラリッサが、柱の陰で唇を噛みしめているのが見えた。アネットはそちらを見ないようにした。
扉の手前で、一度だけ立ち止まった。
振り返ってもう一度、王太子と、ヴィルフリートと、リリィを見た。三人とも、もう自分のことを見ていない。次の話題、次の踊り、次の一杯へと、すでに気持ちが移っている。
それでいい。
扉が、アネットの背後で閉じた。
広間の喧騒が遠のき、夜の静けさが、初めて肌に触れた。




