第6話
大広間は、千の蝋燭で満たされていた。
王太子主催の春の大夜会。王宮で年に数度しか開かれぬ催しで、王国の高位貴族はほぼ全員が参集する。アネットも父と共に出席し、白銀の刺繍を施した深緑のドレスで隅に控えていた。
そのアネットの名が、突如として広間に響き渡った。
「アネット・モンフォール伯爵令嬢。前へ出よ」
王太子の声だった。楽団の奏でていた曲が、ぴたりと止まる。広間中の視線が、いっせいにアネットへ集まった。
アネットはわずかに息を吸い、ドレスの裾を整えて歩み出た。中央には、王太子と並んでヴィルフリートが立ち、その傍らにはリリィがいる。
来た。
胸の奥で、冷たい確信が降りてきた。
「アネット嬢」
王太子が、厳かに口を開いた。
「そなたに、リリィ嬢への毒物混入の疑いがかかっている」
ざわめきが、波のように広間を伝った。
「先日の茶会の翌日、リリィ嬢は数日にわたり高熱に苦しまれた。寝室に残された茶器より、毒草の成分が検出された。さらに――」
王太子は、銀の盆を指し示した。盆の上には、小さな麻袋。
「そなたの邸の温室で採取された、同種の毒草の種だ。出入りした使用人が、証言しておる」
アネットは、麻袋を静かに見つめた。
あの種は、母の温室にはない。母の手記に毒草の項はあっても、栽培の記録はない。誰かが持ち込んだのだ。買収された使用人か、忍び込んだ何者かが。
仕組まれている。
驚くほど、頭は冷えていた。これだけ大掛かりな証拠を一夜で揃えるには、長い準備が必要だ。婚約破棄を望むヴィルフリート、自分を脅威とみなしたリリィ。両者の利害が、この夜に結ばれた。
ふと視線を上げると、リリィと目が合った。
リリィの瞳が、わずかに揺れた。
「殿下……どうか、どうかお許しください」
涙の膜の張った瞳で、リリィは王太子の腕に縋った。
「アネット様は、私のお茶会での無作法を、お叱りになりたかっただけかもしれません。私を貶めるおつもりは、きっとなかったのです」
「リリィ嬢……」
「私は、許します。許しますから、どうかお優しい裁きを」
涙が、彼女の白い頬を伝う。広間の女性たちの幾人かが、ハンカチで目元を押さえた。崇高な聖女の慈悲に、心打たれる素振り。
アネットは、小さく息をついた。
上手いものだ。
心のどこかで、一人の薬学者として感心すらしていた。声の震えの作り方、視線を伏せる角度、涙が頬を伝う前の一瞬の沈黙。完璧に計算された演技だった。
もしアネット自身が、母の手記を読んでいなかったら。
もし父の咳に気づいていなかったら。
あの茶会で、リリィの「治癒」に違和感を覚えていなかったら。
きっと、自分もこの広間の人々と同じように、聖女の慈悲に心打たれていただろう。
「リリィ嬢の心根の優しさは、まことに尊い」
王太子は、感極まったようにリリィの肩に手を置いた。
「されど、罪を犯した者を、ただ赦すわけにはいかぬ。アネット嬢、申し開きはあるか」
アネットは、ゆっくりと顔を上げた。
広間中の視線。蔑む者、憐れむ者、冷たく見守る者。父はどこだろう、と探す余裕も今はなかった。ヴィルフリートは、リリィの腰に手を回している。
「殿下」
アネットの声は、思ったよりも静かに響いた。
「それらの種は、私の温室から出たものではございません。私は、毒など盛ってはおりません」
「証拠がある」
「証拠は、いつ、誰の手によって、私の温室に置かれたのでしょうか」
王太子の眉が、わずかに動いた。リリィの瞳が、一瞬だけ、刃のように光った。
その光を、アネットは、見逃さなかった。




