第5話
次の月例の茶会は、ベルクマン侯爵邸の温室で開かれた。
ガラスの天井から差し込む春の光は柔らかく、白い椅子と銀のティーセットを淡く照らしている。本来であれば、心の弾むはずの場所だった。けれど向かいに座る婚約者の口からは、開口一番、別の女の名が漏れた。
「アネット、聞いたか。リリィ嬢が、孤児院の子供たちの病を癒したそうだ」
ヴィルフリートは紅茶よりも先に、その話を始めた。
「貧しい子らに自ら出向いて、無償で治癒なさったという。なんと崇高な御心だろう。聖女と呼ぶに、まことふさわしい」
「……さようでございますね」
アネットはカップに口をつけた。孤児院、と頭の中で繰り返す。リリィが治癒したという子供たちのその後を、ヴィルフリートは尋ねただろうか。元気にしているか、確かめただろうか。きっと、していない。
だが、それを口にする気にはならなかった。代わりに、別の言葉を選んだ。
「ヴィルフリート様。実は最近、私も薬草の研究で、ひとつ新しい処方を試しております」
「ほう」
「滋養強壮の薬で、咳や倦怠感に効くようです。お母様がご体調を崩していらっしゃると伺いました。もしご迷惑でなければ、お納めいただきたく」
言ってみてから、アネットは自分の声がわずかに震えていたことに気づいた。これは、せめてもの試みだった。婚約者として、これからの義母に手を差し伸べる、最後の善意だった。
ヴィルフリートは、しばらく無言だった。
やがて、彼はカップを置き、目元をわずかに歪めた。
「アネット」
低い声だった。
「君は、いつもそうだ」
アネットは顔を上げた。
「華やかな話をしているのに、君はすぐ薬草だの病だのと、陰気な話に持っていく。リリィ嬢の善行を聞いて、まず思うのが自分の薬の宣伝か。貴族令嬢が、薬種屋の真似事をして悦に入るとはな」
言葉が、温室の空気を冷やしていった。
アネットの指先が、カップの取っ手の上で固まる。薬種屋の真似事。母が遺したものを、命がけで残したものを、彼はそう呼んだ。
「君には、本当に華がない」
ヴィルフリートは、まるで天気の話でもするように、再びそう言った。
「もう少し、リリィ嬢を見習ってくれ。あの方の傍にいると、空気が明るくなる。君の傍にいると、湿った薬草園にいるようだ」
アネットは膝の上で手を組み直した。何か言い返すべきだろうか。考えて、首を横に振った。
言い返しても、届かない。
「ご忠告、痛み入ります」
平らな声でそう告げて、アネットは静かに頭を下げた。
帰りの馬車に揺られながら、アネットは窓の外を見つめていた。
春の街路樹が、若葉を風に泳がせている。きれいだと、心のどこかが認めた。けれどその反対側で、もうひとつの感情が、静かに芽吹いていた。
怒り――ではなかった。落胆ですらない。
もっと冷たくて、もっと澄んだ何か。
政略結婚に、愛は必要ない。そう教わって育った。だから、愛されないことを嘆くつもりはなかった。けれど、敬意さえも、向けてもらえないのか。
母が遺したもの。アネットが守ってきたもの。それを「薬種屋の真似事」と呼ぶ人と、生涯を共にする。
アネットは、馬車の窓に額を寄せた。冷たい硝子が、頬の熱を吸い取っていく。
「失っても、構わない」
声に出してみると、不思議なほど胸が軽くなった。
ヴィルフリート・ベルクマン。あなたを失っても、私は構わない。
馬車は、夕陽の差す石畳の道を、屋敷へと進んでいった。アネットの中で、何かがひとつ、静かに区切られた音がした。




