第4話
翌朝、朝食の席で、アネットは小瓶を父の前に置いた。
「お父様、最近お疲れのご様子ですから。母の遺した処方の、滋養強壮の薬です」
父――モンフォール伯爵は、娘の顔をしばらく見つめてから、相好を崩した。
「お前が作ってくれたのか。母さんと同じだな」
「五日ほど続けて、朝晩に。少し苦いですが、お慣れになるかと」
父は素直に小瓶を受け取り、食前に一口含んだ。眉根を寄せたが、笑って残りも飲み干した。アネットは何食わぬ顔で紅茶のカップに口をつけたが、心臓は早鐘のようだった。
毒の正体も、リリィの企ても、父にはまだ告げない。けれどせめて、解毒の薬だけは飲ませる。それが今のアネットにできる、唯一のことだった。
効果は、思いのほか早く現れた。
三日目の朝、父はずいぶん晴れやかな顔で食卓に現れた。
「アネット、あの薬は不思議だな。夜の咳がぴたりと止まった。胸の重さも消えて、十年若返った気分だ」
「それは……ようございました」
アネットは微笑みながら、内心で深く息をついた。
咳が止まった。つまり、肺に蓄積していた毒が、体外へ排出されつつあるということだ。母の処方は、十年経った今も、確かに正しかった。
「実はな」
父が声をひそめた。
「ベルクマン侯爵の奥方も、最近お加減が悪いと聞いた。ヴィルフリート殿の母君だ。お前の薬を、少し分けてやれぬか」
アネットの手が、紅茶のカップの上で止まった。
「……差し上げる分は、ございません」
声は、思ったよりも冷たく響いた。父が驚いたように顔を上げる。アネットは慌てて取り繕った。
「材料が、限られておりますので。改めて、調達してから」
父は何かを言いかけて、口を閉じた。
ヴィルフリートの母――近々アネットの義母になるはずの人。だが、毒に蝕まれているとすれば、それは彼女がリリィの茶会に頻繁に出ているからだ。アネットの薬を渡した先で、感謝を受ける場面が想像できる相手では、なかった。
代わりに、薬は別の場所へ届けられた。
その日の午後、クラリッサがお忍びで屋敷を訪れた。アネットは小瓶を手渡し、囁くように告げた。
「滋養強壮の薬よ。ご親族で、お疲れの方がいらっしゃれば」
「あら、ありがたいわ。最近、母も叔母も体調を崩しているの」
クラリッサは深く考えずに受け取り、しかし瓶を傾ける手つきから、アネットの真剣さは伝わったようだった。
「……アネット。何かあったの?」
「いずれ、お話しします。今は、お母様にだけ飲ませてさしあげて」
クラリッサは、しばらく沈黙してから頷いた。賢明な彼女は、それ以上を問わなかった。
数日後。
アネットの薬を飲んだクラリッサの母も、叔母も、長らく続いていた倦怠感が消えたと言う。クラリッサは小声でアネットに告げた。
「他のご婦人方にも、評判よ。あなたの『滋養剤』を譲ってほしいって、何人かに頼まれたわ」
「断ってちょうだい」
アネットは静かに答えた。広げれば、必ずリリィの耳に入る。今はまだ、こちらの動きを悟られてはならない。
その夕刻、ヴィルフリートから一通の手紙が届いた。来週の茶会の日取りを変える、との一文だけ。アネットの体調や近況を尋ねる言葉は、ただの一行もない。
アネットは手紙を畳み、ろうそくの火に近づけた。一瞬、燃やしてしまおうかと思ったが、思い直して引き出しに仕舞った。
まだだ。まだ、何も起こっていないふりを、続けなければ。
窓辺に立つと、夕暮れの庭で薬草が風に揺れていた。アネットは小さく、母に語りかけた。
お母様、私は何を始めようとしているのでしょうね、と。




