第3話
茶会から戻ったその夜、アネットは母の研究室の鍵を開けた。
屋敷の北棟、人の出入りの絶えた区画。ろうそくに火を灯すと、書架にぎっしりと詰まった書物の背が浮かび上がる。母が亡くなって十年、父はこの部屋を「そのままにしておけ」とだけ命じ、誰にも触らせなかった。
アネットは奥の引き出しから、母の手記を取り出した。
革表紙はすでに角が擦り切れ、ページの端は何度もめくった指先で柔らかくなっている。母の几帳面な筆跡が、薬草の図と共に並ぶ。アネットは目次をたどり、ある項目で指を止めた。
《幻覚を伴う植物毒》
ろうそくの芯がわずかに揺れた。アネットは深く息を吸い、ページを繰った。
――『この種の毒は、即座に痛覚を麻痺させる。傷の治癒とは異なる。被毒者は陶酔感に包まれ、自身が回復したと錯覚する。短期的には「治った」ように見えるが、毒は体内に残留し、長期に渡り内臓を蝕む』
アネットの指先が、文字をなぞる。
茶会で見た光景が、鮮明に蘇った。傷が塞がる速度。兵士の不自然な紅潮。焦点の合わない瞳。あれは治癒ではなかった。あれは、毒の作用だった。
まさか。
頭の片隅で否定する声がする。あんな大勢の前で、王太子もいる場で、毒を盛るなど誰にもできない。だが、母の手記は続けてこう記していた。
――『この種の毒は、揮発性が高い。霧状にして放てば、その場の者全員に影響を及ぼし得る』
アネットは、ろうそくを掴む手に思わず力を込めた。
あのとき、リリィが「光よ」と祈った瞬間、確かに彼女の指の間から、薄い金の輝きが立ち上っていた。あれが光魔法であるはずがないと、アネットの薬学の知識が告げている。あれは――揮発した薬の、屈折した光だ。
書物を閉じ、廊下に出ると、咳の音が聞こえた。
乾いた、抑えるような咳。父の寝室の方角からだった。アネットは足を止め、耳を澄ませる。咳はしばらく続き、やがて静かになった。
いつからだろう。父がああして夜中に咳をするようになったのは。
アネットの背筋が、冷たくなった。父はここ半年ほど、王太子の取り巻きとして茶会や夜会に頻繁に呼ばれている。リリィの「治癒」の場にも、何度も同席しているはずだ。
もし、揮発した毒を吸い込んでいたのなら。
もし、それが父の体を、少しずつ蝕んでいるのなら。
「お父様……」
声に出してから、アネットは慌てて口を押さえた。深夜の屋敷は、しんと静まり返っている。
父の寝室の扉の前で、アネットは長く立ち尽くした。今、扉を叩いて告げるべきだろうか。お父様、リリィ嬢の治癒は毒です、と。
いや、駄目だ。
証拠がない。仮説しかない。父は誠実な人だが、王家への忠誠心も篤い。「奇跡の聖女」を貶める娘の言葉を、簡単に受け入れはしないだろう。むしろ、危ない夢想として叱るかもしれない。
ならば、まず動くしかない。
研究室に戻ったアネットは、棚から数本の小瓶を取り出した。
母が遺した蒸留器、乳鉢、計量の天秤。指先に染みついた感触で、迷わず手が動いた。
《幻覚毒に対する解毒薬》。母の手記の、別の項に記された処方。アネットは原料を並べていく。乾燥させた苦草の根、湖底の沈泥から抽出した塩、そして自家栽培の解毒花の蕾。
ろうそくを増やし、火を入れる。湯気が立ち、独特の苦い香りが部屋に広がっていく。
お父様には、滋養強壮の薬と言って飲ませよう。
アネットは、薬研を挽く手を止めない。窓の外では、薄雲を抜けた月が、研究室の床に長い影を落としていた。




