第2話
王宮の薔薇園に、午後の柔らかな光が降り注いでいた。
白絹の天幕の下、長卓には銀器が並び、王太子主催の茶会には、王都の名だたる貴族令嬢たちが集っている。アネットは隅の席に腰を下ろし、目立たぬよう淡い藤色のドレスを選んだことを、ひそかに後悔していた。
今日のリリィ・グレイは、白薔薇のような出で立ちだった。
「皆様、お待たせいたしました」
遅れて現れたリリィは、薄い金の髪を風になびかせ、頬を上気させて礼をした。男爵家の養女とは思えぬ洗練された立ち居振る舞い。集まった令嬢たちの視線が、いっせいに彼女に吸い寄せられる。
ヴィルフリートも例外ではなかった。
彼はすぐに席を立ち、リリィの手を取って自分の隣の椅子へ導いた。アネットの座る方角には、一度も視線をやらない。
「ヴィルフリート様、こんなに親切にしていただいて。私のような者には、もったいのうございます」
リリィの瞳が潤む。ヴィルフリートはやさしく微笑み、彼女の肩にそっと手を添えた。
アネットは膝の上で、紅茶のカップを静かに持ち上げた。手は震えていない。震えていない、と自分に言い聞かせた。
異変が起きたのは、その直後だった。
天幕の外を巡回していた若い警備兵が、配置を変える際に石段で足を滑らせた。鈍い音と共に倒れ込み、抜き身の剣の刃で太腿を深く切った。鮮血が石畳を染め、令嬢たちの幾人かが小さく悲鳴を上げる。
「血が……お医者を、誰か早く!」
「いいえ、お待ちください」
澄んだ声が、騒ぎを切り裂いた。
リリィだ。彼女は躊躇なく駆け寄り、兵士の傍らに膝をつく。白いドレスに血が散るのも構わず、両手をかざした。
「光よ、この傷を癒したまえ」
短い祈り。その手のひらから、淡い金色の光が溢れる。傷口はみるみる塞がり、流れ出ていた血が止まり、兵士は呆然と自分の太腿を見つめた。
「動かして……ご覧なさい」
リリィに促され、兵士は恐る恐る脚を曲げる。痛みはなく、傷はもう、白い線さえ残っていない。
会場が、わっと沸いた。
「奇跡だ……」
「やはり本物の聖女様だ」
令嬢たちの目が、感涙に潤んでいる。ヴィルフリートはリリィに駆け寄り、その手を恭しく取った。アネットも他の者たちと同じく、立ち上がって拍手を送った。
送りながら――胸の中で、別の音が鳴っていた。
おかしい。
アネットは席に戻り、紅茶の表面に視線を落とした。喧騒は遠く聞こえ、思考だけが冴えていく。
母の手記には、戦場で兵士の刀傷を癒した記録がいくつもある。皮膚は癒えても、内側の組織が修復されるまでには時間がかかり、しばらくは熱が出るのが普通だ。それが、傷を負った人体の自然な反応だと母は書いていた。
なのに、あの兵士はどうだろう。
血は確かに止まった。傷口も塞がった。けれど、彼の頬は不自然なほど紅潮していて、目の焦点が、わずかに合っていなかった。痛覚の消失。陶酔。汗もかいていない。あの状態は、傷が癒えた人のものではない。
まるで、感じなくなっただけ、のような。
しかも、あの祈りの言葉。母の手記にも教会の文献にも、あんな短い詠唱で深手を癒した記録はない。本来、治癒魔法には祈祷文と魔力の練り上げが必要なはずだ。
アネットはカップに口をつけ、ゆっくりと茶を飲んだ。
「アネット様」
声をかけてきたのは、令嬢の一人だった。
「あなた、なぜ拍手の途中で席にお戻りになったの? 聖女様の御業に、感じ入るところはございませんでしたか」
含みのある声。アネットは顔を上げ、控えめに微笑んだ。
「とても、見事でしたわ」
それ以上は言わなかった。
言える相手が、この場にはひとりも、いなかった。




