第1話
朝靄の温室には、母の匂いがする。
アネット・モンフォールは、湿った土に指を沈めながら、そっと薬草の根元を整えた。ガラス越しに差し込む春の光が、淡く色づいた葉脈を透かしている。十年前に流行病で逝った母が、最後まで愛したこの場所。父はいつしか足を運ばなくなり、使用人たちも遠巻きにするようになった。
残されたのは、アネットだけだ。
「お嬢様、紅茶をお持ちしました」
侍女のメイが、湯気の立つカップを盆に載せて入ってくる。アネットは土で汚れた手を布で拭いながら、小さく礼を言った。
「ありがとう。もう少しで終わるから、書斎に置いておいて」
「またご研究ですか? 旦那様がご心配なさっていますよ」
メイは控えめに眉を寄せる。アネットは曖昧に微笑んだ。
心配。たしかに、二十二歳にもなって温室に籠もる娘を、父は不憫に思っているのだろう。だが手放すことはできない。母が遺した手記には、まだ世に出ていない薬学の知見が詰まっている。
毒と薬は紙一重。生かすも殺すも、調合する者の良心ひとつ。母はよくそう言って、薬研を挽きながら少女のアネットに微笑んでくれた。
これは家業ではなく、母とアネットだけの、誰にも踏み込ませない聖域だった。
午後、王都の中心にあるベルクマン侯爵邸の中庭で、アネットは婚約者と向かい合っていた。
月に一度、形ばかりの茶会。ヴィルフリート・ベルクマンは銀髪に碧い瞳の整った青年で、噴水のそばに座っているだけで一枚の絵になる。
ただし、その視線がアネットに向くことは、ほとんどない。
「アネット、君も少しは社交を覚えたまえ。先日の夜会、君の話題は薬草のことばかりだったと聞いた」
「申し訳ございません。控えるよう努めます」
「努める、ね」
ヴィルフリートはカップを置き、ため息をひとつ落とした。
「君には、華がない」
春の風が、彼の言葉を運んでいく。アネットは膝の上で指を組み、視線を伏せた。何度言われたか、もう数えていない。
「リリィ嬢を見習うといい。あの方は、立っているだけで場を明るくする」
リリィ。最近、社交界で囁かれる名だ。アネットは小さく頷いた。返す言葉は、いつものように、見つからなかった。
政略結婚だと、最初から言い渡されていた。愛されることは望んでいない。けれど、こうも明確に他の女性と比べられて、気にならないわけではない。
ふと顔を上げると、ヴィルフリートはもう自分を見ていなかった。庭の向こう、屋敷の窓辺に立つ侍女たちのほうへ視線を流して、小さく笑っている。彼の心が、ここにないのは明らかだった。
夜、アネットの部屋を訪ねてきたのは、数少ない友人のクラリッサだった。
王太子妃候補に名の挙がる彼女は、本来こんな伯爵家の地味な娘の友になる立場ではない。それでも幼い頃からの縁を、クラリッサは大切にしてくれている。
「アネット、聞いた? あの『奇跡の治癒師』のこと」
寝椅子に身を預けたクラリッサが、声を潜めた。
「リリィ・グレイ嬢。男爵家の養女ですって。光の魔法で、瀕死の兵士をその場で癒したそうよ」
「光の……魔法?」
アネットの指先が、わずかに止まる。
治癒魔法は、王国でも数えるほどしか使い手がいない希少な才能だ。教会の最高位の聖女ですら、傷を癒すには長い祈祷を要する。それを兵士の前で、即座に。そんな存在が、男爵家の養女として突然現れる。あまりに、できすぎている。
「いえ、私もただの噂として聞いただけよ。ただ……」
クラリッサは少しためらってから、声を細めた。
「ヴィルフリート様、最近お茶会のたびにリリィ嬢の隣にいらっしゃるそうよ。あなたに、伝えるべきか迷ったのだけれど」
アネットは膝の上の手を、そっと握りしめた。
来週、王太子主催の茶会がある。リリィも招かれるだろう。
短く答えるべきだったのに、声が出なかった。アネットは窓の外に視線を向けた。月が、薄い雲に覆われている。
胸の奥で、名前のつかない不安が、ひとつ、芽吹いた音がした。




