第48話
雪が降り始める前の、晴れた冬の朝。
王都ベルガリアの大聖堂の前に、王国中から人々が集まっていた。王家、貴族、各地の領主、近隣諸国の使節、さらに街の人々までが、列をなして見守っている。聖堂の前の大通りには、辺境伯軍の二百騎の儀仗隊が、漆黒と銀の隊列で並んでいた。
聖堂の鐘が、鳴り響いた。
純白の馬車が、聖堂の前に停まった。御者の手が扉を開けると、最初に降りてきたのは、礼装のモンフォール伯爵――父だった。
父はしばし振り返り、馬車の中の娘に手を差し伸べた。
アネットが、降りた。
純白の絹のドレスは、街の女たちが何ヶ月もかけて縫い上げたもの。襟元には、グレタが贈った《白光の石》の胸飾りが、淡い光を放っている。髪には、母が手記に遺した婚礼の薬草の飾りが、丁寧に編み込まれていた。乾いた白い花、緑の細葉、銀の蕾。十年以上前、母が自身の婚礼で結ったのと同じ細工。
観衆の間に、息を呑む音が、波のように広がった。
追放された地味な娘は、もう、そこにはいなかった。けれど、華やかな貴族令嬢でもなかった。彼女はその日、ただ自分の生き方をすべてまとった一人の女として、聖堂への階段を上がっていった。
父が腕を取った。アネットは父を見上げ、小さく頷いた。父の目には、隠しきれぬ涙が滲んでいた。
移送の馬車が、聖堂の脇の街道を、ちょうど通りかかったのは、その時だった。
判決執行のため、王都西の終身投獄施設へ運ばれていく、リリィの馬車だった。鉄格子の隙間から、麻の囚人衣の彼女の目が、聖堂前のアネットを、一瞬だけ捉えた。
馬車は、止まらなかった。
けれど、彼女の唇が、わずかに動いた。
「私は、あなたに、勝てなかったのね……」
誰にも届かぬ呟きだった。馬車はそのまま、街道の彼方へと消えていった。
観衆の中には、ヴィルフリートもいた。平民への降格こそしなかったが、もう貴族の正面席には呼ばれなかった。彼は遠くの人垣の後ろから、ただアネットを見つめていた。
アネットは、一度も、その方角を見なかった。
聖堂の正面の祭壇には、ガルシアが立っていた。
漆黒の儀礼の鎧。胸には、辺境伯家の紋章。武人としての、最も誇りある装い。彼の赤い瞳が、聖堂の入口に現れたアネットを捉えた瞬間、その瞳の奥で、何かが、ふいに揺らいだ。
近づいてくるアネットを、ガルシアは黙って見つめていた。
言葉は、なかった。けれど互いに、長い物語のすべてが、視線の中で確かに分かち合われていた。
祭壇の前で、父はアネットの手を、ガルシアの手に渡した。武人の太い指が、薬師の細い指を、優しく包んだ。
大司教が、誓いの言葉を述べた。続いて、王自らが立ち上がった。
王は、白髪の頭で、深く頷いた。
「ベルガリア王家は、ここに、ガルシア・ヴォルク辺境伯と、アネット・モンフォール嬢の結婚を祝福する。両家の繁栄を、王国の繁栄として祝わん」
ベルガリア王家から、両家への正式な祝福。
アネットとガルシアは、共に深く礼をした。続いて二人は、向かい合った。ガルシアの大きな手が、アネットのベールを、そっと持ち上げた。月光の屋上で交わした、不器用な口づけよりも、ずっとゆっくりと、けれど確かな口づけが、祭壇の前で交わされた。
聖堂の鐘が、いっせいに鳴った。
観衆が、大きな拍手で湧いた。儀仗隊が剣を抜き、空に向けて掲げた。鐘の音と拍手と剣の鞘音が、王都の冬の空に、長く長く、響き渡った。
聖堂を出るとき、アネットの目に、見知った顔が幾つも映った。
クラリッサが、王太子妃の正装で、目を真っ赤にして拍手していた。父は、堪えきれなくなった涙を、ハンカチで拭いていた。クラリッサの侍女頭マーサが、ベール越しに、そっと頭を下げていた。あの雨の日、店を訪れてくれた人だった。
アネットは、すべての顔に、一つひとつ、礼を返した。
ガルシアの手が、確かに、彼女の手を握っていた。
冬の太陽が、二人の上に、柔らかく降り注いでいた。




