第46話
ヴィルフリートが去って数日後の夜、城の使いが店を訪れた。
ガルシアからの伝言だった。今夜、城の屋上に来てほしい、という。屋上――それは、これまでアネットが上がったことのない場所だった。城の最も高い、かつての見張り台の跡だった。
アネットは、上等な薄手の上衣を選び、髪を結い直した。この時季にしては珍しく、丁寧に身支度をしている自分に気づいて、頬がわずかに熱くなった。
城へ向かう道すがら、街は静かだった。秋の夜の空気は澄んで、月が大きく、満ちる前のひと回り手前の輪郭で、空に浮かんでいた。
屋上に上がると、ガルシアが、月光の中に立っていた。
いつもの漆黒の鎧ではなかった。深い藍色の上衣に、銀の縫い取りの入った肩布。武人ではなく、ひとりの男としての装いだった。アネットが石段の最後の一段を踏むと、彼はゆっくりと振り向いた。
「来てくれたな」
「はい」
二人の間に、しばし沈黙が流れた。
遠く、街の灯りが、谷の底に星のように散らばっていた。風はなく、空気は冷たくも温かくもなかった。ガルシアの首筋の鱗が、月の光を、わずかに反射していた。
「アネット」
「はい」
「お前に、話したいことがある、と言ったな」
「はい」
声が、すこし掠れていた。アネットは、無意識に両手を胸の前で握り合わせていた。
ガルシアは、深く息を吸った。
それから、武人らしくない、ぎこちない動きで――月光の下、片膝を、ついた。
「俺の妻になってくれないか」
声は、低かった。けれど、その低さの底に、震えるものが、確かにあった。
「俺は、口下手な男だ。お前にふさわしい言葉を、まだ何ひとつ、持ち合わせていない。だが、これだけは言える。お前の薬師としての人生も、俺の妻としての人生も、両方、俺が守る。誓う」
アネットは、手を口元に当てた。
涙が、止まらなかった。
「ガルシア様」
声が、震えた。
「私は、もう、ずっと前から、答えを決めておりました」
彼女は、ゆっくりと、彼の前に膝を折った。月光の下で、二人の目線が、同じ高さになった。
「はい。私も、あなたを選びます」
短い言葉だった。けれど、その短さに、辺境に来てからのすべての夜が込められていた。一年と少し、誰にも頼らずに生きてきた日々と、ガルシアと出会ってから少しずつ柔らかくなっていった日々と、戦の傍らで彼の手を握りしめた夜の、すべてが。
ガルシアは、しばらく、動けなかった。
やがて彼は、震える手を伸ばし、アネットの頬に、ゆっくりと触れた。武骨な指は、思いのほか優しかった。アネットは、その指に、自分の手を重ねた。
月光の下で、二人の唇が、初めて、触れた。
短い、不器用な口づけだった。長い物語に対しては、あまりにも控えめな仕草だった。けれどそれで十分だった。それで、すべてだった。
離れたあと、二人はしばらく、額を寄せ合っていた。ガルシアの息が、温かかった。アネットの目から、また涙が、ひと粒、零れた。
「お前を泣かせてばかりだな」
「嬉しいときの涙です」
「それなら、構わん」
ガルシアの低い笑い声が、夜の静けさに溶けた。
翌朝、街は、いつもと違う騒ぎで目を覚ました。
城の鐘が、いつもより長く、明るく鳴っていた。続けて街中の家々の戸口に、城からの正式な触れ書きが配られた。
《辺境伯ガルシア・ヴォルク閣下と、薬師アネット・モンフォール殿のご婚約、ここに発表される》
子供たちが歓声を上げた。井戸端の女たちが手を取り合った。冒険者ギルドからは、その日のうちに祝宴の呼びかけが街中に飛び、グレタが先頭に立って酒樽を運び出していた。
街全体が、祝福の空気に包まれていく。
アネットは、店の前の長椅子に座り、その喧騒を、ゆっくりと耳に染み込ませていた。傍らで、ガルシアが、いつもの不器用な顔で、けれど確かな満足の表情で、長椅子に並んで座っていた。
夜空には、もう、満月が近づいていた。




