第43話
戦が終わって、ひと月後の夏の終わり。
ヴォルクハイムの城に、王家からの正式な使者が訪れた。今度は、王太子直属の侍従ではなく、王自身の名で派遣された大使だった。城の謁見の間が整えられ、ガルシアは武人の正装で、アネットも辺境の薬師らしい白い上衣で、共に大使を迎えた。
大使は、王の宣旨を、声を整えて読み上げた。
《王家ベルガリアは、ここに以下の宣旨を発する――アネット・モンフォール嬢の伯爵令嬢としての身分を回復する。家督継承権の復権を認める。母君、先王家侍医アリス・モンフォール卿の死については、十年越しの再調査の末、隣国諜報組織によるものと断定し、その名誉を回復する》
アネットは、深く頭を下げた。
名誉の回復。十一年越しの、母の名の回復。胸の奥で、長くこらえていた何かが、静かに溶けていく感覚があった。
大使は、続けて、もう一つの宣旨を読み上げた。
《加えて、王国を救った功績により、王家はアネット・モンフォール嬢に対し、新たに『侯爵』位の授与を打診する。これに同意の場合、改めて領地と侯爵家の創設を、王家の責任で執り行う》
謁見の間が、わずかにざわめいた。
侯爵位。それは、ベルガリア王国において、王家に最も近い、最高位の貴族の称号だった。父祖の家格を超え、新たに王国第一級の家を起こすことを意味する。並の貴族ならば、生涯一度の名誉として、二つ返事で受けるはずの打診だった。
アネットは、静かに顔を上げた。
「王家のお心遣いに、心より感謝申し上げます」
声は、穏やかだった。
「されど、侯爵位の打診は、辞退申し上げます」
大使の眉が、わずかに上がった。
「私は、辺境の薬師でございます」
アネットは、続けた。
「街の方々と共に、薬を作り、病を診て生きていく――それが私の生き方でございます。侯爵家を起こせば、それに見合う社交と政務の責務を負わねばなりません。私には、それを務めながら薬師であり続ける器量は、ございません」
「では、伯爵家への帰還も……?」
「家督継承権の復権は、ありがたく頂戴いたします。けれど、家督そのものは、しかるべき時期に、養子か親族に譲ります。私はもう、辺境の女として、ここで生きてまいります」
アネットは、深く頭を下げた。
「私は、辺境の薬師で、十分でございます」
大使は、しばらく口を結んでいた。
迷っているのは、彼自身ではなく、ベルガリア王家の威光への配慮だった。侯爵位を辞退されることを、王家は想定していなかった。彼はやがて、深く息をついて、礼儀正しく頷いた。
「アネット殿のお心、ご立派にございます。王家には、責任をもってお伝え申し上げます」
「お手数をおかけいたします」
「お母君の名誉回復については、すでに王城の名誉録に記載されました。原本の写しを、お持ちいたしました」
大使は、絹で包まれた羊皮紙を、両手で差し出した。
アネットは、両手で受け取った。
長く、それを抱きしめていた。母の名前が、十一年ぶりに、王家の名誉録に正式に記された。文字としての復権だった。それでも、それで十分だと、心のどこかが告げていた。母は、文字の人だった。書かれた字に、強くこだわった人だった。文字の上で名誉が戻れば、母はきっと、それで満足する。
大使が王都へ戻ったあと、ガルシアがアネットの傍らに立った。
「侯爵位を、断ったな」
「はい」
「お前らしい」
「お叱りを覚悟していました」
「叱るわけがない」
ガルシアは、わずかに笑った。
「俺は、辺境の薬師としてのお前を、一番愛おしく思っている」
言ってから、彼は咳払いをして、視線を逸らした。武人の口から、思いがけぬほどまっすぐな言葉が出てしまったのが、自分でも意外だったらしい。
アネットは、絹の包みを胸に抱きしめたまま、ゆっくりと俯いた。頬が、熱かった。
窓の外で、夏の終わりの蝉が、最後の力を振り絞って鳴いていた。




