第42話
ガルシアが意識を取り戻したのは、運び込まれてから三日後の朝だった。
アネットは寝台の脇で、薬を煎じ続ける手を、ふいに止めた。彼の睫毛が、震えるように動いた。次の瞬間、赤い瞳が、ゆっくりと開いた。
「……ここは」
掠れた声に、アネットは思わず駆け寄った。
「野戦病院です。ガルシア様、もう、大丈夫ですから」
「お前か」
「はい」
ガルシアは、しばし天幕の天井を見上げ、それからアネットの方へ顔を向けた。
「俺は、約束を、果たしたな」
「果たされました」
「お前との約束を破るわけには、いかんからな」
武人らしくない、わずかに揺らいだ声だった。アネットの目に、また熱いものが滲んだ。けれど今度は、嗚咽ではなく、笑みのほうが先に零れた。
「ええ。本当に、果たされました」
戦況の報せが、その日のうちに届いた。
ガルシアが負傷した戦闘で、彼の指揮を引き継いだ副将と東部諸侯軍が、帝国軍の主力を国境の手前で食い止めた。続く三日間の戦闘で、ベルガリア軍は逆に攻勢に転じ、五日目には帝国軍を国境の向こうへ押し返した。
帝国軍は、本国からの追加派遣を断念し、撤退を決めた。
帝都の動きを見ていた密偵頭が、後日報告したところによると、《静かなる毒》計画の頓挫と、ベルガリア軍の反攻速度の速さに、帝国側は当初の想定を完全に見誤っていたという。何より計算外だったのは、ベルガリア中央が病み上がりにもかかわらず、辺境からの解毒薬と医療体制で予想以上に短期に立ち直っていたことだった。
戦勝の報せは、戦場全土に広がった。
その報せの中で、アネット・モンフォールという名は、辺境伯ガルシア・ヴォルクの名と並んで、繰り返し挙げられた。
兵士たちは、彼女を新しい呼び名で呼び始めた。
《辺境の聖女》。
最初に呼んだのは、毒矢で意識を失った若い兵だった。アネットの解毒薬で目を覚まし、寝台で起き上がれるようになった彼が、看護要員に向かって、ぽつりと言った。「あの方は、聖女様だ」。
その言葉が、戦場の天幕から天幕へ、噂となって広がった。
アネットは初め、その呼び名を辞退した。「聖女」は、リリィが偽装に使っていた称号だった。同じ呼び名で呼ばれることに、複雑な気持ちが先に立った。けれど兵たちは、譲らなかった。
「リリィ嬢は、偽の聖女だった。あんたは、本物の聖女だ。同じ呼び名でも、中身が違う」
戦場で命を救われた者たちの、率直な気持ちだった。アネットは結局、辞退の言葉を呑み込んだ。
ガルシアが寝台の上で起き上がれるようになった頃、彼の天幕に、アネットが薬を運んだ。
彼は寝台の脇に立つアネットを、ひとしきり見つめた。それから、わずかに口の端を上げて、囁くように言った。
「やっと、お前にふさわしい称号が来たな」
「ガルシア様……」
「《辺境の聖女》。悪くない響きだ」
「お恥ずかしいです」
「恥じることなど、何もない」
ガルシアは、アネットの手を、そっと取った。
「お前が、命を救った数の分だけ、その呼び名は、お前のものだ。誰も、奪えん」
アネットは、深く頭を下げた。下げながら、頬がじんわりと熱くなるのを感じた。
数日後、撤退完了の報せが届いた頃、ガルシアの容態は、安定して移送できる段階まで回復していた。
アネットは野戦病院の指揮を、副薬師に引き継いだ。残った重症者の処置と、撤収の手順を細かく書き残し、自分はガルシアと共に、ヴォルクハイムの城へ戻ることになった。
帰路の馬車の中で、ガルシアは寝台に横たわったまま、しばし窓の外を眺めていた。
「アネット」
「はい」
「街に戻ったら、話したいことがある」
彼の声は、いつもの低い調子だった。けれど目尻だけが、ほんのわずかに、和らいでいた。
アネットは、その横顔を見て、何度も頷いた。何の話か、なんとなく、察しがついた気がしていた。
馬車は、辺境の街道を、ヴォルクハイムへと進んでいった。窓の外で、戦の終わった夏空が、どこまでも青く澄んでいた。




