第41話
担架が、野戦病院の中央天幕に運び込まれてきた。
漆黒の鎧は、もう原形を留めていなかった。腹部の鉄が、深く、抉るように裂けている。担架を担ぐ兵たちの手が、震えていた。傍らを駆ける副官が、息を切らせて報告した。
「敵の毒剣による刺し傷です! 意識は、約半時前から、ありません!」
アネットは振り返らずに、看護要員に指示を飛ばした。
「中央寝台を空けて。湯と火、火竜草、苦草、解毒花。ありったけ持ってきて。誰か、私の革袋から、母の手記の写しを取って」
声は、震えていなかった。震える余裕がなかった。
ガルシアの躯が、寝台に横たえられた。鎧の留め金を、看護要員と手分けして、震えるほどの速さで外していく。鎧の下は、彼の血で、ほとんど真黒に染まっていた。
傷を見た瞬間、アネットの背筋に、冷たいものが走った。
深い。深すぎる。腹腔まで達している。普通の人間ならば、この出血量だけで、すでに死んでいる。竜人の血の強さが、ガルシアをぎりぎり、生かしているだけだった。
しかも、傷口の縁が、独特の暗紫色に染まっていた。毒。それも、見たことのない種類の毒だった。
アネットは母の手記の写しを開き、頁をなぞった。
見つけた。最後の章の、さらに奥にある、母が「実用の前に、本人は試せなかった」と但し書きを残している、最後の処方。竜人の血を引く戦士が、致命の毒を受けた場合の――母が、ある竜人の戦士のために考案し、けれど使われる前に自身が死んだため、書付として残しただけの処方。
高難度の処方だった。失敗すれば、毒の周りを早めるだけになる。
けれど、躊躇している時間はなかった。
アネットは、手元で薬を組み立て始めた。
火竜草の根、苦草の蕾、解毒花の濃縮した液、それから、辺境の山にしか自生しない月光草。最後の月光草は、母の手記の最も奥の処方にしか使われない、まれな素材だった。アネットは備蓄から最後の一束を取り出した。
看護要員が、湯を運んできた。アネットは、自分の手で、すべてを煎じた。誰にも任せなかった。傷の洗浄から、薬の塗布、胸への支持の処置、口に含ませる解毒の液まで。すべて、自分の手で行った。
外では、夜の帳が降りていた。天幕の中の灯油の灯りが、ガルシアの顔を、橙色に染めていた。
彼の呼吸は、薄かった。胸の上下が、肉眼でようやく分かるほどの、わずかなもの。アネットは脈を取り続け、煎じ液を継ぎ足し、布を取り替え続けた。
時間の感覚は、すぐに失われた。ただ、ガルシアの呼吸の細い線だけが、世界の中心だった。
深夜、彼の呼吸が、ふいに止まりかけた。
アネットは胸を強く押し、彼の名を、何度も呼んだ。
「ガルシア様!」
声が、震えた。
「お戻りになって! お願いです、もう少しだけ、息をしてください!」
彼の胸が、震えるように、もう一度、上下した。アネットは安堵に膝が折れそうになるのを堪え、追加の煎じ液を口に含ませた。
また、しばらく、安定する。それから、また、止まりかける。何度それを繰り返しただろう。月光草の煎じ液は、最後の一杯になっていた。
手記の処方では、それで足りるはずだった。足りるはずだった。けれど――。
明け方近く、彼の呼吸の波が、不意に、深くなった。
不規則だった胸の上下が、規則的なものに変わっていく。脈の打ち方が、少しずつ、力を取り戻していく。傷口を覆った布の下で、出血が、ようやく完全に止まっていた。
アネットは、寝台の脇に、崩れるように膝をついた。
彼の手を、両手で握りしめた。鎧の手甲を外したあと、初めてまともに触れる、武人の手。指の節が太く、剣ダコがあちこちに残る、温かい手だった。
「死なないで……」
声に、初めて、嗚咽が混じった。
「お願いだから、あなたまで、私から奪わないで……」
涙が、ガルシアの手の甲に、ぽたぽたと落ちた。
彼の指が、わずかに、ほんのわずかに、アネットの手を握り返した。
アネットには、その小さな圧が、世界のすべてを救った気がした。




