第40話
夜明け前の、ヴォルクハイム城の中庭。
松明の光に照らされて、辺境伯軍の出陣が、最終段階に入っていた。馬の嘶き、武具の触れ合う音、隊長の指示の声。漆黒の鎧に身を包んだガルシアが、馬の傍らで最後の指示を出している。アネットは、城の入口に立ち、その光景を見ていた。
彼女もまた、戦場へ赴く支度を整えていた。
看護要員の前掛けの下に、母の手記の写しを胸に巻き付け、薬の入った革袋を二つ、肩から提げる。野戦病院の道具を積んだ馬車三台が、城門のそばで出発の合図を待っている。
ガルシアが、隊列の調整を終えて、こちらへ歩いてきた。
彼の前に立つと、急に、言葉が出てこなくなった。
昨夜、執務室で何時間も話したはずだった。手順、連絡、最悪の事態の備え。すべて、論理的な確認は終えていた。けれど今、いざ別れの瞬間に立つと、論理の言葉では足りない何かが、胸を塞いだ。
「アネット」
「はい」
「俺は、約束をする。戦士の約束は、軽くない」
ガルシアの赤い瞳が、夜明け前の薄暗がりの中で、まっすぐにアネットを見た。
「絶対に、死なない」
短い、けれど鉄のような声だった。
「お前を残して、死んだりしない。お前の元へ戻る。約束する」
アネットは、頷くしかなかった。
すぐに頷いたのは、彼の言葉を信じたからではない。信じる、ではなく、信じたい、と願ったからだった。戦場で、約束はいつでも破れる。けれど彼が、自分のためにその約束をしてくれたという事実だけが、いま、何よりも温かかった。
「ご無事で」
声が、震えた。
「お前もな」
ガルシアは、アネットの手を、一瞬だけ強く握った。それから、踵を返し、馬の鞍に手をかけた。
角笛が鳴り、漆黒の旗が高く掲げられた。辺境伯軍は、まだ朝日も差さぬ街道を、東部国境へと進発していった。
四日後、戦場の後方およそ五里の地点に、野戦病院が立ち上がった。
白布の天幕が十二張、長椅子と寝台が並び、薬の樽が運び込まれる。アネットは中央の天幕で指揮を執り、看護要員の四十名が、それぞれの持ち場で物資の最終確認をしていた。
遠く東の空に、黒い煙が、何条も立ち上っている。
戦闘は、すでに始まっていた。
最初の負傷兵が運ばれてきたのは、戦闘開始から半時もせぬうちだった。落馬した若兵、矢傷の従士、剣で腕を斬られた従卒。アネットは持ち場ごとに看護要員を配し、自身は重症者の判別と処置を一手に引き受けた。
「次、こちらへ。意識のある者は、後方の天幕へ。意識のない者は、私の側へ運んで」
声を張った。看護要員たちが機敏に動き、傷兵が流れるように天幕を行き交った。
日が高く昇るにつれて、運び込まれる兵の数は、加速度的に増えていった。
矢傷、剣傷、馬の蹄に踏まれた者、火傷、骨折。中には、明らかに毒矢で射られた者もいた。アネットは矢傷の毒を見分け、解毒の薬を手早く投じ、次の患者へと駆ける。額に浮かぶ汗を拭う暇もなかった。
「先生、危ない兵がもう一人!」
「こちらへ! 周囲は下がって、空気を入れて!」
声が枯れてきた。それでも止まれない。一人、また一人、命を留める。それが今の自分の戦だった。
夕刻、戦闘の第一日目が終わるという伝令が走った。前線は持ちこたえている。辺境伯軍は東部諸侯と連携し、帝国軍の進軍をいったん食い止めたという。アネットは、わずかに肩の力を抜いた。
その時、新しい伝令が、息を切らせて天幕に駆け込んできた。
「アネット殿! 至急、こちらへ! 重症者を、運んでおります!」
血相の変わった伝令の顔を、アネットは見た。ただの重症者ではない、と直感した。
「誰、ですか」
伝令は、声を絞り出すように告げた。
「ヴォルク辺境伯閣下です」
アネットは、薬瓶を、取り落としかけた。




