第39話
城の角笛が鳴ってから、ヴォルクハイムの街は、半月で姿を変えた。
大通りの空き地には、急ごしらえの薬草の蒸留小屋が三つ建った。冒険者ギルドの広間は、薬包の包装作業場に転用された。井戸端の女たちの集まりが、自然に看護要員の組織会議になっていた。
その中心に、アネットがいた。
彼女は前掛けを締め直し、母の手記を抱えて街を歩き、薬師組合の薬師たちと、調合の手順を一つずつ確認していた。秘伝として独占できたはずの母の処方は、組合の七名の薬師に開示された。彼らは恭しく書き写し、それぞれの工房で、量産に取り掛かった。
「先生、苦麦草の解毒の処方、ここの分量は」
「もう一摘み増やしてください。発熱が強い症例には、その方が効きが良いです」
「分かりました」
若い薬師が、駆けるように工房へ戻っていく。アネットは、その背を見送りながら、深く息を吸った。
街の女たちが、井戸端ではなく、店の長椅子に集まるようになっていた。
看護要員の組織は、グレタが旗振り役を引き受けてくれた。冒険者ギルドの中年女性たちと、街の妻たち。総勢、四十名ほど。彼女たちはアネットの指導で、戦場で必要となる基本的な処置を学んだ。
止血の手順。汚染された傷口の洗浄。痙攣する患者の体位。意識のない者への水分の補給。
みな、初めは戸惑っていた。けれど三日目には、互いに患者役を交代しながら、声を掛け合って実技を繰り返していた。冒険者ギルドの厳めしい中年女が、若い妻に丁寧に手順を教える光景が、不思議と街には自然に映った。
「先生、私たちで、本当にお役に立てるのかしら」
ある夜、グレタが薬の匂いが満ちた店の隅で、ぽつりと尋ねた。
大柄なギルド長が、その日初めて、わずかに弱気な顔をしていた。アネットは湯呑みを手渡しながら、静かに答えた。
「皆さんが手当てをした傷の数だけ、戦場から街に帰ってくる人が、増えます。それ以上のことは、誰にもできません」
「それは……あんたが街に来た日から、教えてもらってきたことだね」
グレタは、湯呑みを傾けた。
城には、辺境伯軍と王家直属軍からの派遣指揮官が、続々と集まっていた。
アネットはガルシアと共に、城の作戦室で、医療体制の最終確認をしていた。野戦病院の設置場所、後方への搬送路、薬の補給線、城内の重症者収容所。地図の上に、何十もの小旗が立っていた。
「街の医療拠点は、四箇所に分散させます」
アネットは、地図を指で辿った。
「街中心の医療所、東門近くの拠点、城内収容所、それから、戦場後方の野戦病院。重症者は順に、街中心へ送ります」
「指揮系統は」
「拠点ごとに責任薬師を一名、看護要員の班長を一名。私は野戦病院に詰めます」
「戦場の傍だぞ」
「重症者の判別と、未知の毒への対応は、私が一番早くできます。後方にいては、間に合いません」
ガルシアは、しばし黙った。
「分かった」
短く頷き、彼はアネットの肩に手を置いた。
「お前は、戦場の傍らで、もう一つの戦をする。俺は前線で剣を振るう。戦の形は違うが、二人とも、同じ国を守る」
その夕、街の中央広場で、出陣の前夜祭が開かれた。
灯りが、街じゅうの軒先に灯された。冒険者たちが舞い、女たちが歌い、子供たちが笑いながら走り回った。明日からの不安を、一晩だけ、忘れるための祭。
アネットは広場の隅で、子供たちに薬草の入った小さな包みを配っていた。包みには、小さな解毒の符が一枚ずつ入っている。家族が無事に帰ることを願う、お守りでもあった。
「先生!」
ジャンが駆け寄ってきた。最初の客の少年は、もうすぐ十二になる。
「父ちゃんが行くから、お守り、いっぱいちょうだい!」
「ええ、いっぱい持っていきなさい」
アネットは、ジャンの手の上に、包みを五つ重ねた。
「私たちは」
彼女は、広場の灯りを見渡しながら、自分にも告げるように、続けた。
「私たちの居場所を、守るのです」
夜空に、街の歌声が、長く長く、響いていた。




