第36話
その夜会は、王太子の生誕祝賀のために、王城の大広間で開かれた。
王家直々の催しだった。社交界が病に侵されていることを承知のうえで、なお王太子は催行を望んだ。「弱った中央を、一晩だけでも、明るい光で包みたい」と、彼は王に願ったという。リリィも、もちろん同席していた。蝋燭の光の下、彼女は白いドレスで王太子の傍に立ち、微笑みを絶やさなかった。
乾杯の合図のあと、楽団が舞曲を始めた。
最初の曲が終わる前のことだった。
広間の隅で、ひとりの夫人が、酒杯を取り落とした。
乾いた音が、楽団の音楽の隙間に落ちた。続いて、別の方角で、若い令嬢が膝をついた。三歩離れた紳士が、襟元を緩めて壁にもたれかかった。階段の中ほどで、白髪の老侯が、柵を握りしめたまま、ゆっくりと崩れた。
倒れたのではなかった。倒れていったのだった。
四十秒のうちに、広間の三分の一の出席者が、足を止め、顔色を失い、近くの椅子や柱や床に、身を預けていた。
楽団が、奏楽を止めた。広間が、しん、と静まった。それから、悲鳴と怒号が、いっぺんに上がった。
「殿下! 殿下、お気を確かに!」
王太子が、玉座の段で膝をついていた。
彼は最も濃く、長く、リリィの「治癒」を受け続けてきた者だった。蓄積された毒の量も、誰よりも多かった。指は震え、目の焦点が定まらず、額には冷や汗が玉のように浮かんでいる。
駆け寄った侍従長が、王太子を支えた。
「リリィ嬢! お早く治癒を! 殿下を救ってください!」
リリィは、呼ばれた。
白いドレスのまま、彼女はとっさに王太子の前に駆け寄り、両手をかざした。「光よ、この方の命を」と祈祷を始める。けれど、その手から立ち上る薄い金の光は、いつもより弱々しく、消えるのも早かった。
王太子の容態は、変わらなかった。
むしろ、彼の咳が、新たに激しくなった。同時に、リリィの近くで倒れた数人の症状も、彼女が祈祷を強めるたびに、目に見えて悪化した。
「やめさせろ!」
突如、玉座から、王の声が落ちた。
王が、立ち上がっていた。
白髪の王は、咳を堪えながら、震える指でリリィを指差した。
「やめさせよ! 彼女の祈祷の周囲で、症状が悪化している! 誰の目にも明らかだ! 衛兵、リリィ・グレイを、ただちに拘束せよ!」
広間が、一瞬、凍りついた。
次の瞬間、衛兵たちが動いた。リリィは振り返り、青ざめた顔で王に縋ろうとした。
「陛下、お待ちを! 私は神の御使いでございます! このような扱いは……!」
「黙れ」
王は、低く、しかし鋼のような声で告げた。
「神の御使いなら、神の御力で症状を癒してみよ。それができぬのなら、お前は神の御使いではない」
リリィの口が、わずかに開いて閉じた。
次に出た言葉は、彼女自身でも意図しない、あまりに不用意なものだった。
「……陛下、これは想定外でございます」
広間に、もう一度、別の質の沈黙が降りた。
想定外。それは、敬虔な聖女が、神の前で口にする言葉ではなかった。任務の進行を計算する者、計画から外れた事態に動揺する者の、職業的な口癖だった。
王の目が、鋭く光った。衛兵たちはリリィの両腕を、しっかりと掴んだ。
「殿下、しっかり!」
「アネット嬢の薬を! 早馬を辺境へ! 解毒薬を、できる限り早く!」
悲鳴と命令が、広間に飛び交った。リリィは衛兵に引きずられていく。歩きながら、彼女は最後にもう一度振り返り、なぜか王ではなく、空中の一点を、長く見つめた。
まるで、誰かに合図を送ろうとするような目だった。
その視線の先に、誰がいたのかは、誰にも見えなかった。




