第34話
ガルシアが王都から戻ったのは、それから十日後の夜だった。
彼は王家への報告と軍備の調整を済ませ、街道を駆け通しで戻ってきた。城に着くなり、まずアネットの店へ寄った。執務机の前ではなく、店の暖炉の傍らで会いたい――そんな伝言だった。
夜半、アネットが店の鍵を開けると、旅装のままのガルシアが立っていた。
頬は薄く土埃に汚れ、外套の裾には乾いた泥の跡。いつもの威圧的な漆黒の鎧ではなく、軽装の旅着のままで、駆けてきたことが一目で分かった。アネットは熱い湯を出し、向かいの椅子に腰を下ろした。
「お疲れさまでございました」
「お前のほうこそ、大丈夫か」
ガルシアは、湯呑みを置き、まっすぐにアネットを見た。
「父上の書状の写し、お前が王都に出した書状も、すべて読んだ。お前の母上の死の真相――辛いものを、一人で受け止めさせた」
アネットは、わずかに目を伏せた。
「気丈に振る舞っているのは、知っている」
ガルシアの声は、低く、優しかった。
「お前は強い。けれど、強いことと、辛くないことは違う。今夜は、俺の前では、強がらなくていい」
アネットは、しばらく湯呑みの縁を、指でなぞっていた。
胸の奥で、書付を読んだ夜から押し殺してきた何かが、ゆっくりと、また顔をもたげていた。けれど涙にはならない。代わりに、別の質問が、口を衝いて出た。
「ガルシア様」
「うむ」
「あなたは、なぜ、中央を信じておられないのですか」
ガルシアは、長く黙っていた。
「俺の話を、するか」
彼は、湯呑みを置いた。暖炉の火が、彼の顔の半分を、深い橙色に染めていた。
「俺が八つの年だ。先代辺境伯――俺の父が、王都の宴に呼ばれた。竜人の血を引く一族と中央貴族の融和、と銘打った宴だった。父は信じて、俺を伴って王都へ向かった」
「……はい」
「宴の三日目に、父は『流行病』で死んだ」
アネットの息が、止まった。流行病。
「その夜の宴で、父の杯に、何かを盛った者がいた。誰が手を下したかは、結局わからずじまいだ。父は深夜に苦しみ、夜明け前に冷たくなっていた。俺は、八つの子供だった。父の躯の脇で、ただ震えていた」
ガルシアは、暖炉の火に、視線を落とした。
「俺は、辺境に逃げ帰った。母は俺が物心つく前に亡くなっていたから、辺境伯邸には、俺と老臣たちしかいなかった。中央の貴族たちは、誰も助けてくれなかった。竜人の血を引く子供を、誰も守らなかった。むしろ、辺境伯家が断絶することを、内心で歓迎している顔の者すら、いた」
そこで、ガルシアは口を結んだ。
長い沈黙だった。アネットは、何も言わずに、彼の語りの続きを待った。
「俺はそれ以来、中央を信じない」
ガルシアは、深く息をついた。
「中央は、俺たちのような『血の違う者』を、最後の最後では切り捨てる。それは八つで学んだ。だから、辺境を強くした。誰の力も借りずに、ここを守れる場所にした」
彼は、アネットを見た。
「俺もお前と同じだ。中央に、近しい者を奪われた。中央を、信じていない。だからこそ、お前の身に起きたことが、他人事に思えなかった。だからこそ――お前を、守りたかった」
声の最後の一節が、わずかに掠れた。
アネットは、目を瞬いた。
彼の語りの、最も深いところに、自分の名が置かれていた。「お前を、守りたかった」――それは、武人らしい飾らぬ言葉だった。けれど、八つの少年の中の傷が、その一言の根の深さを、何より雄弁に語っていた。
「ガルシア様」
アネットは、卓越しに、彼の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「ありがとうございます。お話しくださって」
ガルシアは、何も言わずに、手の甲を返して、アネットの指を、ゆっくりと握りしめた。
暖炉の薪が、小さく、爆ぜた。
二人の傷は、その夜、初めて、同じ言葉を持った。




