第32話
数週間後、密偵頭が城に戻ってきた。
日に焼けた、痩せた中年の男だった。海岸沿いを辿り、商船に紛れ、外国人風の使者の動きを追跡してきたという。執務室に、ガルシアとアネットが呼ばれた。卓の上には、密偵が持ち帰った書状の写しと、暗号化された通信文の解読報告が、几帳面に並べられていた。
「閣下、ご報告申し上げます」
密偵頭は、深く礼をした。
「外国人風の男たちは、イルマリア帝国諜報部、所属。彼らが本国に送っていた通信文を、入手いたしました」
「読み上げよ」
密偵頭は、解読された羊皮紙を広げた。
「《対象薬師の処方解析、進捗鈍化。被験体に近似毒を投与しても、反応する薬剤の同定に至らず》。それから、《本国計画の最終段階、年内発動の方向で調整中。中央貴族の弱体化、九割完了》」
部屋が、しんと静まった。
「最終段階」
ガルシアの声が、低く震えた。
「具体的には、何だ」
「別の通信文に、記述がございます。《ベルガリア中枢の機能不全を確認次第、東部国境より侵攻を開始。先遣隊の集結はすでに完了》」
密偵頭は、地図の一点を指した。ベルガリアとイルマリアの国境、そのすぐ向こう側。
「すでに、現地に小規模ながら帝国軍が集まっております。主力ではありません。されど、これより順次、増派される動きが見えております」
アネットは、卓の縁を握りしめた。
頭の中で、いくつもの欠片が、いっぺんに繋がった。
リリィの「光魔法」は、神の御力ではなかった。それは、揮発する植物毒だった。十年前から計画的に貴族の中枢に紛れ込み、長期にわたって少しずつ、王国の中枢を弱らせる。社交界が病に倒れ、王城の意思決定が滞り、軍の指揮系統に隙が生じたところを狙って、隣国の軍が東から雪崩れ込む。
ベルガリア王国を、内側から瓦解させる。それが、リリィを送り込んだ者たちの、十年がかりの計画だった。
「これは……単なる毒殺劇では、なかったのですね」
声が、自分のものとは思えぬほど、掠れていた。
「侵略のための、下準備だった」
ガルシアは、地図を睨み、頷いた。
「リリィは、駒だ。彼女自身も、自分が計画の何段目を担っているか、おそらく全ては知らされていない。けれど、彼女がいなければ、この計画は成立しなかった。中央は、神の御使いに毒を盛られていたのだ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
暖炉に薪を足す音だけが、部屋に響いた。密偵頭は背筋を伸ばしたまま、ガルシアの次の指示を待っていた。
「アネット」
ガルシアの声が、再び戻った。
「薬の量産体制を、組めるか」
「……組みます」
アネットは、即答した。声は、もう震えていなかった。
「中央への定期的な卸しに加え、戦時の野戦病院規模での解毒薬と治療薬の備え。母の手記の処方を、辺境の薬師たちに開示します。一人で抱えていれば間に合いません」
「お前の家の知識だぞ」
「家の知識など、何の意味もありません。今、必要としている人に、届かないのなら」
ガルシアは、深く頷いた。それからアネットの肩に、そっと手を置いた。
「俺は、王家に通報する。先遣隊集結の証拠を持って、王都に駆ける。お前は街に残り、辺境の医療を整えてくれ。お前のいるべき場所は、ここだ」
「はい」
アネットは、深く頭を下げた。
密偵頭が、新たな指示を受け、部屋を出ていった。残された二人は、しばらく地図の上のイルマリアを見つめていた。
春の陽気とは似つかわしくない、底冷えのする沈黙が、執務室に降りていた。何かが大きく動き出す予感が、その沈黙の中で、確かな形を取り始めていた。




