第30話
雪解けの兆しが見え始めた早春の朝、街門に再び、王家の紋章を掲げた馬車が停まった。
以前のような物々しい護衛はなかった。馬車は一台、護衛は四騎、書記官と侍従が二名ずつ。ヴォルクハイムの兵が確認の書状を受け取ると、すぐに城へと連絡が走った。
使者の長は、王太子直属の侍従ではなく、王家の老侍従長その人だった。
ガルシアの差配で、城の謁見の間ではなく、アネットの店に近い、城下の小さな迎賓館が会見の場とされた。アネットは藍色の地味な上衣を選び、髪をひとつに結って、迎賓館の卓に着いた。ガルシアが、傍らに椅子を据えて控えた。
老侍従長は、深く礼をした。
白髪の整った、温和な顔つきの老人だった。決められた台本を読み上げる声には、けれど、隠しきれぬ感情が滲んでいた。
「アネット・モンフォール殿。この度は、王太子殿下より直々の親書を携えて参りました」
老侍従長が差し出したのは、王家の朱印が押された、重い一通だった。アネットは静かに受け取り、卓の上で開いた。
文面は、簡潔だった。
《一年前、汝を排した王家の処罰は、誤りであった。これを公に取り消し、汝の名誉を回復する。汝の母君、先王家侍医の死についても、再調査を命じた。願わくば王都に帰還し、王城付薬師として、傷ついた中央の医療を、再び支えてほしい》
文末に、王太子の自筆の署名。それから別の一行が、震えた筆致で添えられていた。
《一年前のあの夜の、私の振る舞いを、深く詫びる》
アネットは、文面を、二度読んだ。
胸の中は、思ったよりも、静かだった。
怒りもない。喜びもない。ただ、紙の上の言葉として、静かに受け止めた。一年と少し前、王太子の前で深々と頭を下げた自分は、こんな日が来ることを、想像していなかった。けれど来てしまえば、それは、思ったよりも淡い味わいだった。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「老侍従長様。王太子殿下のお心遣いに、深くお礼を申し上げます」
「アネット殿……」
「されど」
アネットの声は、穏やかだった。穏やかだからこそ、揺るぎがなかった。
「王城付薬師としての登用は、辞退申し上げます」
老侍従長の目が、わずかに見開かれた。
「私の居場所は、もうここです」
アネットは、簡潔に告げた。
「中央へお戻り申すつもりは、ございません。名誉の回復は、ありがたく頂戴いたします。母の調査の件も、心よりお願い申し上げます。けれど、私の身は、辺境伯領の薬師として、置かせていただきとうございます」
彼女は、深く頭を下げた。
「ただし、薬は卸させていただきます」
老侍従長が、わずかに息を呑んだのが分かった。
「中央の被害者の方々のために、解毒薬の処方を、辺境伯領経由で、定期的にお届けいたします。お代は、お受け取りいたしません。代金相当の金子は、貧しい家の子のための病院、または孤児院へ、王家の名で寄付してくださいませ」
「お代を、お受け取りに、ならぬと」
「私はもう、中央のお金で生きる者ではございません。卸す薬は、母の知識への報いとして、無償でお渡しいたします。代わりに、中央が、誰かを救ってくださればよろしいのです」
老侍従長は、長く沈黙した。
やがて彼は、白髪の頭を、深く深く下げた。八十に近い王家の重鎮が、追放した娘に向かって、心からの礼をする姿。傍らのガルシアの目に、薄く笑みのような色が浮かんだ。
「承りました」
老侍従長は、震える声で告げた。
「王太子殿下、並びに王家に、漏らさずお伝え申し上げます。アネット殿の御志は、中央の灯となりましょう」
「ありがたきお言葉、痛み入ります」
アネットは、もう一度、深く頭を下げた。
会見は、その一刻ほどで終わった。馬車が街道の彼方へ去ったあと、ガルシアは隣のアネットを見て、ふっと短く笑った。
「中央が、お前に頭を下げる日が来たな」
「……まだ、信じられません」
「俺は、信じていた」
アネットは、ガルシアの横顔を、しばし見ていた。
春が、もうすぐそこまで来ていた。




