第29話
父が王都へ帰ったあと、ガルシアの様子が、おかしかった。
城の薬庫で会っても、視線がアネットの肩のあたりで止まり、目を合わせない。話しかければ短く答えるが、返事が一拍遅い。すれ違う廊下で、「ああ」と低く頷くだけで、いつもの世間話もない。
数日、それが続いた。
アネットは初めの二日は気づかぬふりをしたが、三日目には、心配のほうが先に立った。冬の薬の調合を終え、夕刻、城の執務室の扉を、自分から叩いた。
「ガルシア様」
扉を開けると、ガルシアは執務机に向かい、地図のような何かを広げていた。アネットの声に、肩がほんのわずかに跳ねた。
「ご機嫌伺いに参りました。ここ数日、ご様子が、いつもと違うように見受けられましたので」
「……俺は、いつも通りだ」
目を合わせずに答える。アネットは扉を後ろ手に閉め、卓のそばに歩み寄った。
「ガルシア様」
「うむ」
「私、何かお気に障るようなことを、いたしましたでしょうか」
ガルシアは、ぴくりと羽根ペンを止めた。
しばらく、沈黙が続いた。机の上のろうそくが、軽く揺れ、影を壁に投げかけた。やがて、ガルシアはペンを置き、椅子の背にもたれた。
「お前のせいではない。俺の側の、勝手だ」
「お話しいただけますか」
武人らしくない、口ごもる声。アネットは静かに、椅子に座って待った。
ガルシアは、しばし額を押さえていた。
「お父上が、来られたな」
「はい」
「中央が、お前を取り戻したがっている、と聞いた」
「お聞きでしたか」
「街に、噂が流れる」
ガルシアは、低く息を吐いた。
「俺は……お前が、中央に戻るかと、覚悟していた。お前のお父上の前で、俺がお前を引き止めることは、できぬからな。お前が中央へ戻ると言えば、俺はそれを、見送るしかなかった」
言いながら、彼は窓の外を見た。
「ここ数日、その覚悟をするのに、忙しかった。お前と顔を合わせると、その覚悟が崩れるから、避けていた。情けない話だ」
アネットは、息を止めた。
言われて初めて、自分が父の訪問の意味を、ガルシアにきちんと話していなかったことに気がついた。父が来た日、城へガルシアを訪ね、一通り紹介はした。けれど、その後の自分の決断を、あらためて伝えてはいなかった。
「ガルシア様」
「うむ」
「私は、戻りません」
短く、ためらいなく告げた。
ガルシアの目が、こちらを向いた。
「お父様にも、はっきり申し上げました。中央には戻らず、薬だけを卸す、と。私の居場所は、もうここです」
ガルシアは、しばし無言だった。
彼の頬が、わずかに赤くなっていた。それは、暖炉の火のせいではなかった。
「……そうか」
短く、けれど深く、彼は息をついた。
「俺の覚悟は、結局、無駄になったわけだ」
「申し訳ございません」
「いや、ありがたい話だ」
また沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、これまでとは、明らかに違う質のものだった。アネットは膝の上で指を組み、卓の天板の木目を、じっと見ていた。
「アネット」
ガルシアの声が、少し掠れた。
「お前に、ここに居てほしい。俺の傍に、ずっと」
顔を上げる前に、頬が熱くなった。アネットの口は、答えのために開きかけ、けれど言葉は喉の奥で詰まり、出てこなかった。
「すぐに答えなくていい」
ガルシアは、慌てたように付け加えた。
「お前を困らせるつもりは、ない。考えてくれ。それで、いい」
「……はい」
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
アネットは深く頭を下げ、執務室を辞した。
廊下を歩く間、頬の熱は下がらなかった。心の中では、もう、答えは決まっていた。決まっていたからこそ、すぐには口に出せなかった。雪明かりが、窓から、青白く差し込んでいた。




