第28話
雪のなかを、地味な旅装の馬車が街門をくぐった。
馭者は商人風の服を纏い、車体には紋章もない。ヴォルクハイムの兵が形ばかり呼び止めると、男は無言で一通の書状を見せた。兵は中身を一読して背を伸ばし、すぐに脇へ退いた。
馬車は店の裏路地に回った。雪を踏む足音と、扉を控えめに叩く音。アネットが扉を開けると、毛皮の帽子を目深に被った老紳士が、息を白く吐いて立っていた。
帽子を取った瞬間、アネットの息が止まった。
「お父様……」
「アネット」
モンフォール伯爵は、扉の内側に入るなり、深く深く頭を下げた。
以前より、白髪が増えていた。頬は痩せ、目尻に新しい皺が刻まれている。けれど咳はもう出ておらず、目には、若い頃の力強さが、少しだけ戻っていた。
「お元気そうで、何より……ご無事で、本当に……」
声が震えていた。アネットは父を奥の居間に通し、暖炉の火を強くし、温かい湯を出した。父は湯呑みを両手で包んで、しばし暖を取っていた。
「お父様、夜の咳は」
「お前の薬で、ぴたりと止まった。今では、若い頃と同じように夜通し読み書きができる」
「それは何より」
言いながら、アネットは父の手の甲を、そっと撫でた。皺の刻まれた皮膚は、温かかった。一年と少しの間、生きていてくれた手だった。
しばらく無言の時間が続いたあと、父は本題を切り出した。
「アネット。中央のことだ」
「伺います」
「リリィ嬢への疑いが、王家にまで届いた。極秘の調査が始まっている。母さんの死についても、近く再調査の話が出るやもしれぬ」
アネットは、目を見開いた。
「お母様の死は……」
「リリィ嬢の前任者の手によるもの、と疑われている。確証はまだない。だが、十年の沈黙が、ようやく動き始めた」
父は、湯呑みを置き、深く息を吸った。
「同時に、王家はお前を取り戻したがっている。お前の冤罪を晴らし、薬師として迎え、できれば正式な王城付の侍医に登用したい、とまで聞いている。お前が望めば、伯爵令嬢の身分も、家督も、回復される」
アネットは、暖炉の火を見つめた。
「お父様は、私に戻ってきてほしいのですか」
「私の本心を申せば」
父は、しばし黙ってから、絞り出すように告げた。
「戻ってきてほしい。お前を、傍に置いて、これまでできなかった父親をやり直したい。けれど、父親の都合だけを考えるわけには、いかぬ」
父は、アネットの目をまっすぐに見た。
「お前の判断に任せる。だが、戻るなら、今しかない。中央が頭を下げているうちが、最も有利な条件で交渉できる時だ」
しばらく、二人は黙っていた。
雪が、窓の外で、規則正しく降っていた。火の爆ぜる音だけが、部屋に響いていた。
アネットは、湯呑みを、ゆっくりと卓に置いた。
「お父様」
「うむ」
「私は、もう中央には戻りません」
父は、深く息を吐いた。
驚きはなかった。むしろ、その答えを覚悟して、ここまで雪道を越えてきたようでもあった。父は何度か頷き、それから、無理に微笑んでみせた。
「お前の選んだ場所だ。私は、口を挟まぬ」
「ただし」
アネットは、続けた。
「中央へ薬は、卸させていただきます。被害者の方々を、見捨てる気はございません。代金は、孤児院や病院に、寄付として回していただきます。流通の管理は、辺境伯領が担います。そこは、譲りません」
父は、ゆっくりと頷いた。
「分かった。王家には、私からそう伝えよう」
二人の間に、初めて、対等な大人としての沈黙が、流れた。
父は数日この街に滞在し、ガルシアにも面会したのち、雪の止む朝、王都へと帰っていった。
アネットは街門まで見送った。手を振る父の馬車が、白い街道の彼方に消えるまで、寒さも忘れて立っていた。




