第27話
冬の朝、城の使いが、一通の書状を店に届けた。
封蝋には、見覚えのない紋章が押されていた。けれど差出人の筆跡を一目見たとき、アネットは胸の奥がぎゅっと締めつけられた。クラリッサの手だった。
二階に上がり、扉を閉めて、震える指で封を切る。
羊皮紙は、思いのほか分厚かった。ろうそくを引き寄せ、椅子に深く腰かけて、アネットは読み始めた。
《愛しいアネットへ》
冒頭の一行で、もう涙が滲んだ。
手紙は、簡潔な近況から始まり、徐々に重い告白へと進んでいた。中央が、いまどうなっているか。誰が倒れ、誰が薬を求めて狂奔しているか。社交界が崩れていく音を、毎日、すぐ近くで聞いていること。
そして、お詫びの言葉。
《一年前のあの夜会、私はあなたを守れなかった。柱の陰で唇を噛むことしかできなかった。今もそのことを、毎晩思い出して苦しみます。あなたの「申し開きはございません」と頭を下げた背中が、夢に出ます》
《あなたの予言は、すべて当たりました。リリィ嬢への疑念は、ようやく王家にも届き始めています。けれど、被害は止まりません》
《あなたの薬で、何人もが救われています。私もその一人です。母も、叔母も、あなたの薬がなければ、もう生きてはいなかったでしょう》
《どうか、もう少しの間、力を貸してください。中央を許せとは、申しません。ただ、無辜の人々を、見捨てないでください》
アネットは、手紙を膝に置いた。
窓の外で、雪が降り始めていた。粉のような細かい雪が、ガラスを撫でて、すぐに溶けていく。アネットは身じろぎせず、ろうそくの炎が揺れるのを、ただ見つめていた。
胸の中で、二つの感情がぶつかっていた。
一つは、深い怒りだった。中央は、自分から多くのものを奪った。母の名誉も、家督も、婚約者も、何より――自分が暮らした年月そのものを。一年と少し経ったいま、ようやく薬を求めて頭を下げてくる。それは、虫のいい話ではないか。
もう一つは、抑えきれぬ哀れみだった。
手紙に綴られた被害者たちは、何も悪くない。リリィの「治癒」を信じて受け入れただけの、普通の人々だ。倒れた者の中には、十年前に母を慕ってくれた古い貴婦人の名もあった。母の知識を世に出さなければ、その人々が、誰にも救われずに死んでいく。
救う力があるのに、使わずにいるのは、母の遺志に背くことではないか。
その夕、アネットは城のガルシアの執務室を訪ねた。
手紙を読んでもらうのは控えた。代わりに、自分の言葉で、迷っている内容だけを話した。クラリッサからの依頼であること。中央への憎しみと、被害者への同情の間で、自分の中が二つに割れていること。
ガルシアは、最後まで黙って聞いていた。
話し終えたとき、彼は、しばらく天井の梁を見ていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「お前が決めろ」
短い答えだった。
「俺の意見を言えば、お前はそちらに引っ張られる。今のお前にとって、それは良くない。これはお前の母上の知識と、お前自身の人生に関わる選択だ。お前が決めて、俺はそれを尊重する」
アネットは、暖炉の火を見つめた。
甘い言葉ではなかった。むしろ、ガルシアらしい、容赦のない突き放し方だった。けれどそれは、自分を一人の人間として、対等に扱ってくれている証でもあった。
「ただし」
ガルシアが、静かに付け加えた。
「お前がどちらを選んでも、辺境伯領の保護は変わらん。中央に薬を卸すなら、輸送と警護は俺が出す。出さぬなら、出さぬでよい。お前の判断を、邪魔も、後押しも、しない」
「……ありがとうございます」
アネットは、深く頭を下げた。
その夜、店に戻ったアネットは、机に新しい羊皮紙を広げた。
ペンを取り、迷いのない筆致で書き始めた。最初の一文は、こうだった。
《愛しいクラリッサへ。お引き受けいたします――ただし、私の出した条件で》
外では、雪が、いつのまにか深々と降り積もっていた。




